「財界」1月1日新年特大号

「財界」1月1日新年特大号を読みました。 その中で気になった記事は2つありました。 1つは、虎屋さんの記事です。「和菓子の世界はとても懐が深い。その時代のニーズが変化に合わせて…」です 。その中で注目すべき意見がありました。新商品開発の意欲です、老舗に甘えないチャレンジを実行しています。「30年近く社長進めてきてまず感じるのは、今の時代に私は廃らせることなく済んだという安堵感があります。また私、を軽視できて心がけていることは、伝統的なお菓子を作るだけでなく、今の社会を見つめ、何が求められるが何が必要なのかを求めることです。高齢者と高齢社会について理解を深める取り組みを始め、 17年には、通常の羊羹の27分の1の硬さの柔らか羊羹『ゆるるか』を発売しました。」「最近はスポーツの際に羊羹をご利用いただく機会が増えています。余分な油分がほとんどなく、植物性の原材料し使用しているためです。羊羹は低脂質で高糖質のため、運動時のエネルギー補給に適しており、テニスやヨットなどの選手にお使いいただいています。」(ページ123)
もう一つはシリーズ母の教え「いちど立てた目標は必ず完遂するという母の姿から、今も影響受け付けている。」で す。 日総ビルディング社長大西則夫さんの話です。この記事に実兄と争った話が出ていて、その葛藤乗り越えて、また兄弟仲良くなる話が出ています。「母は94歳で息子2人と手をつないで死にたいという最後の願いを叶えて亡くなるなりました。」(ページ126)恩讐の彼方に、良い話です。

財界 2019年 1月1日号 [雑誌]

財界 2019年 1月1日号 [雑誌]

江分利満氏の優雅な生活

江分利満氏の優雅な生活」を読みました。戦中派作家と呼ばれた山口瞳の本作品は高校生の頃から気になっていました。これまで読む気にならなかったというのが本当のところです。先日、古本屋で本書を見つけて思わず購入しました。
庶民の何気ない日々のできごとを淡々と物語に紡いでいます。破天荒な父の事業欲、破綻、懲りない生活、まるで我が父、祖父を見ているようでした。母を苦しめた父を憎みながら愛する姿は我が家に通じるものがあり冷静には読めませんでした。妻が空襲で逃げ惑ったこと、大学を辞めて徴兵にいったこと、博打で食っていたことや、その後のサラリーマン生活、どれもこれも偶然の積み重ねで日々が続く…。人生とは案外こんなものかと得心しました。備忘します。

江分利満氏の優雅な生活 (ちくま文庫)

江分利満氏の優雅な生活 (ちくま文庫)

老年ということがある。そして老醜という言葉がある。「老醜」ということを江分利はむしろ有難いと思うことがある。…父が少し狂っていて、エゴイストで、急にみみっちくなり、吝嗇漢になったことを、いわば「老醜」のサンプルみたいな人間になったことを江分利は心のどこかで感謝しているような気配がある。…年老いて、心が汚くなり、心がおとろえ、みにくくなっていくのは、これも自然ではなかろうか…ページ140

「致知」2018年11月号

致知」2018年11月号を読みました。とても勉強になりました。興味を持って読んだ記事は3つありました。
1つは「自己端正こそ幸福への道」曽野綾子さんのインタビュー記事です。老境に入った人の悟りを感じました。「運鈍根。いい言葉ですよね。運と鈍と根が三つ、つながっていない人間はダメだって。私もそう思います。自分に才能がなくてもあまり気にせず、何とかなるんじゃないかと思ってひたすらやり続けるのがいいんですよ。」(ページ12 )「自分のしたいことを自分の力ですると同時に、他者のためにさせていただくという気がない人間は大人とは言えない。真に幸福な人生も生きられない。だから、7割が自分の楽しみ、3割は育てたいもののためにお金と時間を使う。年をとればとるほど、そういう人間になれるといいですね。」(ページ16)
2つ目は、「読書は人間を深める」という記事です。国語力の向上のカギを握るのは幼児期の教育であって、素読が日本独自の学習で、効果が高いことを語っております。福田恒存さんから教えてもらった言葉を紹介してます。韓非子の言葉「知らずして言うは不智なり。知りて言わざるは不忠なり。」奥の深い言葉です。
3つ目は「長期的視点が日本を救う」という記事で、「渋滞学」に学ぶ仕事や人生を発展させるヒントという副題がついてます。東京大学の西成教授の意見です。「…追い越し車線を走るほうが早いだろうと多くの運転手は考えますが、これも皆が早く行きたいと思って車線変更することで逆に追い越し車線が渋滞して走行車線の早くつけるということがわかっています。(ページ123) 「…例えば、サービスの向上と経営の合理化の両立に悩んでいた企業が、思い切ってあるサービスのレベルを落としてみたところ、消費者から何のクレームもこなかったということがありました。要するに、そのサービスは企業が勝手に必要だと思い込んでいただけであり、消費者が求めていたわけではなかったんです。そしてサービスのレベルを落とした分の資源をたの分野に振り向けることによって生産性を大きく向上させることができたのでした。…渋滞学の研究でもあえて残業や過剰サービスをやめたり減らしたりすることによって業績や生産性の向上につながることが科学的にも明らかになっています。 工場などで使われる機械設備も、できるだけ多くの生産物を作ろうと、稼働率100パーセントにしてしまいがちです。しかし長期的に見ると、それでは機械の調子が悪くなり生産性が下がります。100パーセントより、むしろ80パーセントの稼働でメンテナンスをしながら使うほうが利益が上がることが多いのです。それは人間も同じです。…ここまで見てきたように、「渋滞学」が教えてくれることは、仕事も人生も、短期的なズームインの視点だけではなく、長期的なズームアウトの視点でなければうまくいかないということです。…大学で教えてる学生達にも”今さえよければいい””ここさえよければいい””自分さえよければいい”という言葉は人生や仕事をだめにしてしまう”3つの戒め”だと教えています。」(ページ124)

渋滞学 (新潮選書)

渋滞学 (新潮選書)

もっと言ってはいけない

「もっと言ってはいけない」を読みました。「言ってはいけない」が衝撃的すぎて、今回の著書はそこまでのインパクトはありませんでした。ヒトという生物は、事実に基づいた理解を苦手としています。「氏より育ち」ではなく「育ちより氏」だと再認識しました。備忘します。

もっと言ってはいけない (新潮新書)

もっと言ってはいけない (新潮新書)

この結果をわかりやすく言うと次のようになる。①日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない ②日本人の3分の1以上が小学校34年生の数的思考力しかない。 ③パソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は1割以下しかいない。 ④65歳以下の日本人の労働力人口のうち、3人で1人が早々パソコンを使えない。ページ24
知識社会とはその定義上、高い知能を持つものが社会的経済的に成功する社会のことだ。そう考えれば、知識社会における経済格差とは知能の格差の別の名前でしかない。知能の問題から目を背けて、私たちがどのような世界に生きてるのかを理解することはできない。ページ37
言ってはいけない」でも述べたが、行動遺伝学発見した「不都合な真実」とは、知能や性格、精神疾患などの遺伝率が、一般に思われてよりも高いことではなく(これは多くの人が気づいていた)ほとんどの領域で共有環境(子育て)の影響が計測できないほど小さいことだ。音楽や数学、スポーツなどの才能だけでなく、外行性、協調性などの性格でも共有環境の寄与度はゼロで、子供が親に似ているのは同じ遺伝子を受け継いでいるからだ。ページ43
知能に関する遺伝の影響は成長とともに高まり、幼児教育の効果は思春期になると、ほぼ消失するという発達行動遺伝学の知見はヘッドスタートのような教育支援に深刻な疑問を投げつける。ページ76
母子家庭の世帯所得を増やすには、行政からの生活保護、父親からの養育費、母親が働いて得た所得などが考えられる。…実際には、成績や学習態度で見て最も教育効果が高いのは養育費で、次いで労働所得、生活保護の順になった。同じ不労所得なのに生活保護の効果が際立って低いのは、母親の(ひいては子どもの)自尊心を低下させるからのようだ。ページ81
近年のDNA解析によれば、ヤマト人(現代日本人)は大陸由来の弥生人と土着の縄文人の混血であることがわかっている。地域によって異なるが縄文人のDNAの割合は平均して14から20パーセント程度で、アイヌ人と沖縄人は弥生系の混血の度合いが少ない。ページ193
「日本人の起源」では縄文人弥生人、ヤマト人とアイヌ人、オキナワ人の遺伝的な違いが研究され、近年では日本人と中国人、韓国朝鮮人が遺伝的どれほど異なっているかが(一部で)強調されるようになった。だがDNA解析が示すのは、東アジア系は混血が進んでおり、遺伝的にとてもよく似ているということだ。日本人だからといって、あるいは中国人、韓国・朝鮮人だからと言って、「特別」なところは何もないのだ。ページ196
至る所に警察官を配備し、一挙手一投足を監視するには膨大なコストがかかる。だが他人の道徳的不正を罰することで快感を覚えるように脳を「プログラム」しておけば、共同体の全員が「道徳警察」になって相互監視することで、秩序維持に必要なコストは劇的に下がるだろう。近年の脳科学はこの予想通り、他人の道徳的な悪を罰すると、セックスやギャンブル、ドラッグなどと同様に快楽物質のドーパミンが放出されることを明らかにした。人にとって「正義」は最大の娯楽のひとつなのだ。ページ210
心理学では人格の「ビッグファイブ」を開放性、まじめさ、外向性、協調性、精神的安定性としているが、これらの性格と仕事の成果業績の関係をみると、全ての仕事において最も影響が大きいのは、まじめさで、次いで外向性、精神的安定性となっている。ページ216
人類の第一の「革命」は石器の発明で、「誰もが誰もを殺せる社会」で生き延びるために自己家畜化が始まった。第二の「革命」は農耕の開始で、ムラ社会に適応できない遺伝子が淘汰されてさらに自己家畜化が進んだ。第三の革命が科学とテクノロジーだが、ヒトの遺伝子は、わずか10世代程度では、知識社会がもたらす巨大な変化に到底適応できない。ここに現代社会が抱える問題が集約されているのだろう。ページ241
トランプ現象が明らかにしたのは、ほとんどの人は「事実(ファクト)」など求めていないということだ。右か左かにかかわらず、人々は読みたいものだけをネットで探し、自分たちを「善」、気に入らない相手に「悪」のレッテルを貼って、善悪二元論の物語を声高に語る。人の脳は部族対立に最適化するよう「設計」されており、直感的にはそれ以外の方法で世界を理解できない。ページ242

あの日本史有名人の老い方死に方

「あの日本史有名人の老い方死に方」を読みました。有名人も人間です、いつ頃からを晩年というか深く考えさせられました。水戸光圀柳生宗矩勝海舟池大雅などは羨ましく、渡辺崋山桂太郎滝廉太郎金子みすゞ竹久夢二、宮城道雄は気の毒な晩年、死に方でした。64歳の私も、そろそろ人生の結着について考えなければなりません。備忘します。

朝顔に つるべとられて もらい水」加賀千代がこの名句を詠んだのは、59歳の時である。当時は人生50年といわれた時代だから、この句は晩年に咲いた大輪といえよう。「楽は苦の種、苦は楽の種」という格言があるが、千代の人生がまさにそうだった。ページ67
ある日、見舞いに来てくれた望東に、晋作は「面白きこともなき世に面白く」と上の句を示した。すると望東は「すみなすものは心なりけり」と下の句を続けてやった。文学を愛し、世界を飛び巡りたいという夢をもっていた晋作にとり、動乱の中での青春は、さして面白いものではなかったのかもしれない。その不満を知った61歳の望東は、心がけ次第だと、優しく諭したのである。ページ95
キャラメル箱の献上標本 「一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇のめっでましし森ぞ」1925年は南方熊楠の人生において最も輝かしい年であった。…熊楠は「小生のごとき薄運の者すら長生きすれば天日を仰ぐ日もあるなり」と感激し、6月1日、田辺湾内の神島で昭和天皇を迎えた。ページ135
金子みすゞ1903年山陰海岸屈指の漁港仙崎(山口県長門市)に生まれた。「朝焼け小焼けだ大漁だ 大羽鰯の大漁だ…」ページ226

10分で読む日本の歴史

「10分で読む日本の歴史」を読みました。片手落ちの日本通史です。例えば「大化改新」の記述が一切ありません。曽我氏を滅ぼした日本史に残る大事件です。天智天皇天武天皇の存在と確執が国内のエポックであったこと、天智天皇の対外政策(朝鮮政策)が東アジアに与えた影響も大きな歴史的事実です。それを無視するとは、著者、NHK政策班の見識を疑います。あきる野市で発見されたと言う憲法草案は、この短い通史には必要のないものです。見識を疑います。不平等条約の改正についての記述を読んで、欧米列強の植民地政策に粘り強く交渉した日本人に敬意を評します。備忘します。

10分で読む 日本の歴史 (岩波ジュニア新書)

10分で読む 日本の歴史 (岩波ジュニア新書)

幕府はアメリカに次いでオランダロシアイギリスフランスとも同じようなないような不平等な条約を結びました。日米修好通商条約が対等な条約に改正されたのは1911年。50年以上も後のことでした。ページ124
東京都あきる野市五日市の農家の蔵から憲法案を記した文書が発見されました。五日市という地名からこの憲法案は五日市憲法草案と呼ばれています。 ページ137
1892年、外務大臣になった陸奥宗光は、条約改正の交渉に乗り出しました。交渉相手に選んだのは、イギリスでした。当時のイギリスは、日本と同様に東アジアへの進出を強めているロシアを警戒していたため、利害が一致していたのです。イギリスとの交渉の末、1894年日清戦争直前に、陸奥はついに治外法権の廃止に成功します。しかし関税自主権の回復がまだ残っていました。ページ169
1904年に始まった日露戦争で大国ロシアを破ったことから、日本の国際的な地位は上がり、条約改正を有利に進めることができるようになりました。その時の外務大臣,小村寿太郎は、1911年関税自主権を回復することに成功しました。不平等条約を締結してから50年余が経っていました。こうしてアジアの中に、欧米に肩を並べるまでになった国、日本が誕生したのです。ページ170

日本国紀

「日本国紀」を読みました。週刊誌などで、本書をトンデモ本だとか、ウヨク本だとか、言われています。一読して、私はそうは思いませんでした。一人の人間で日本の通史を書くのは大変なことです。偏るのは当たり前です。「物語日本史」(平泉澄著)ほどは、首尾一貫しているとは言えませんが、日本人を大事にするあまり、踏み込みすぎの部分もあります。例えば、継体天皇自体が傍流であったことの記述がないことや、元寇の勝利が当然であるかのような記述は納得できません。著者の言うように、韓国併合は、清やロシアとの国際関係でやむを得ないことでしたが、福沢諭吉伊藤博文が反対したように膨大な国費を無駄にしたのは間違いありません。近隣国家とは対立するものです。その火種を残したのは痛恨でした。備忘します。

日本国紀

日本国紀

秋の終わりに収穫を祝う「新嘗祭」もその一つだが、これは建国から現在まで宮中で連綿と行われている最重要の祭祀の1つである。しかし大東亜戦争後、アメリカ占領軍の政策により、宮中祭祀、国事行為から切り離され、「勤労感謝の日」という異なる名称に変えられ、古代からの歴史の繋がりを絶たれてしまった。残念な限りである。ページ15
もし神武天皇に率いられた一族が銅鐸文化を持たない人々であるヤマト平野に住んでいた一族が銅鐸文化を持つ人々であったとしたら、どうだろう。神武天皇の一族は銅鐸を破壊したとしても不思議ではない。そしてのちに大和朝廷がじわじわと勢力を広げ、中国地方の銅鐸文化圏の国々を支配していく中で、被征服民たちが銅鐸を破壊されることを恐れてこっそり埋めたとは考えられないだろうか。ページ 21
物部氏を滅ぼした蘇我氏はやがて継体天皇の孫である崇峻天皇を殺害して、第33台推古天皇立てるなど、大きな権力を握るようになる。推古天皇は、日本初の女性天皇であり、東アジアにおいても初の女帝であった。ページ38
608年、聖徳太子は3度目の遣隋使を派遣した。日本の発展のためには、隋と友好関係を結び、優れた文化を取り入れる必要があると考えたからだ。しかしさすがに前のような手紙を書くわけにはいかない。とはいえ、日本の天子を「王」と書くと、自ら冊封を認めることになる。そこで太子は「天皇」という言葉を生み出した。このときの手紙の書き出しは次のとおりである。東の天皇つ寿司みて、西の皇帝にもうす」 太子は天皇という言葉を用いることによって、中国の皇帝と対等の立場であるということを現したのだ。煬帝はあきれたに違いないが、その言葉を使って分からないと日本に伝えた記録はない。ページ40
「和をもって貴しとなし、さかふることなきを宗とせよ」これが第一条の書き出しだが、まず仲良くすることが何より大切で、争い事はよくないと言っています。その後、何事も話し合いで決めようと続く。これは言い換えれば民主主義である。世界の国のほとんどが専制独裁国であった時代に、争うことなく話し合いで決めようということを第一義に置いた憲法というのは、世界的にも珍しい画期的なものであったといえる。ページ42
ひらがなに当たるハングルを持ったのは16世紀である。しかし、当時の学者たちからは嫌われ、ほとんど普及しなかった(公文書すべて漢文)。ハングルを普及させたのは、20世紀に大韓帝国を併合した日本である。戦後、韓国はナショナリズムが高じた末に、固有名詞以外では漢字をほとんど使わなくなり、書籍が全てハングル語で綴られている。日本語で言えば、すべてひらがなだけで書かれた文書である。ページ70
醍醐天皇は道真の怨霊を恐れて、彼の左遷を取り消して名誉を回復させるが、祟りが収まらなかった。…その後も、人々は不遇の死を遂げた人物の祟りを恐れ、彼らの怨霊を鎮めるために神社を作って、御霊を祀った。死者が祟るというこの考え方は日本人特有である。ページ76
この時、崇徳上皇はこんな歌を呼んでいる。「せをはやみ岩にせかかる滝川のわれても末にあはむとぞ思う」百人一首にも入っているこの歌には、2つに分かれた急流が、いつかは1つになって出会うこともあろうかというもので、やがてはことが1つになって欲しいと言う願いが含まれている。ページ83
保元の乱は、歴史的には、それまで脇役でしかなかった中央の武士団が中央の権力争いに顔出したということである。平氏と源氏の力は膨れ上がり、まもなく起こる平治の乱によって朝廷は力を失っていく。その意味で保元の乱こそ、大きなターニングポイントの1つだと言えるのだが、その元になったのは不倫だったというのが面白い。ページ85
かつては蒙古軍に大きな被害を与えたのは、台風とされてきたが、新暦の11月終わりは大型台風が来る季節ではなく、またその記録もなく、現代では「台風説」は否定されている。11月から12月にかけての玄界灘は荒れるため、元軍は帰還中に大きな時化に巻き込まれた可能性が高いと考えられる。この戦いは「文永の役」と呼ばれる。page 100
弘安の役」で蒙古軍を襲った台風は、のちに神風と呼ばれ、神風日本には神のご加護があるという一種の信仰のようなものが生まれた。しかし台風が来なかったとしても、蒙古軍が日本に勝てたかどうかは疑問であると私は考える。というもの、その前からも蒙古は日本軍に苦戦しており、九州上陸が困難だった上、日本には地の利があり、援軍
を送ることも可能だった。ページ104
新田義貞が幕府を倒すことができたのは、正成攻めのために千早城に送り込んだ大軍が半年近く釘づけにされ、鎌倉の防備が手薄になっていたからだった。その意味でも、鎌倉幕府滅亡の真の立役者は楠正成といえるだろう。ページ113
わずかな動きで世界を表現する能や狂言が発達したのもこの頃である。絵画の世界でも、この濃淡だけで自然を描く水墨画雪舟によって完成された。こうしたわびさびという微視から生まれたさまざまな文化や考え方は、その日本人の生活や文化に強い影響を与え、現代に生きる私たちの中にも維新思想となって根強く生きてるという。ページ128
遺伝子研究でも、現在の沖縄県民の遺伝子は中国人や台湾人ととても遠く、九州以北の本土住民に近いという結果が出ている。また琉球の古語や方言にも中国文化の影響は見られず、7世紀以前の日本語の面影が残っている。ページ132
ところで、秀吉が多指症であったという事実であり、これに関しては、他にも証言がある。私が興味深く思うのは、当時の人々からは奇異に見られていただろう、彼が指を切り落としていなかったということだ。私はそこに、名もなき足軽から、天下人にまでのし上がった秀吉という人物の、非常に強い自尊心と意地のようなものを見る。なお、差別につながるのを避けるためか、多くの歴史書に秀吉の多指症についての記述はない。ページ146
20世紀イギリスの偉大な経済学賞、常務メイナードケインズより約40年早く現代のマクロ経済政策を先取りした日本人、荻原重秀の功績がもっと語れてもいい。ページ185
なお世界でも人気の高い空手は、琉球で発達したものだ。韓国は「自国の伝統武芸」と主張するテコンドーは昭和に来日した朝鮮人が日本の松濤館流空手を真似て作った新しい格闘技である。ページ187
太田南畝は御家人で、勘定所勤めの官僚であったが、若い頃から狂歌の名人で、洒脱で諧謔に富んだ歌をいくつも読んでいる…南畝は当時としては長寿の74歳まで生きたが、道で転倒したことがもとで死んだ。辞世は「今までは 人のことだと 思うたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」という人を食ったものだった。ページ210
…ソウルにある「独立門」はこの時、清からの独立を記念して建てられたものだが、今日、多くの韓国人が、大東亜戦争が終わって日本から独立した記念に建てられたものと誤解している。こんな基本的な教育さえも行われていないことはにはあきれるばかりだ。ページ308
その日英同盟の影の立役者は義和団の乱で活躍した前述の芝五郎である。戊辰戦争で破れ、国と多くの家族を失った元会津藩士の男が、日本を救ったのである。柴はその激動の時代を生き延び、大東亜戦争で日本の敗戦を見届ける。生涯で2度にわたって国が破れるという辛い経験をした柴は、長年つけ続けていた日記を焼くなど身辺を整理し、9月15日に自決を図った。しかし老齢のために果たせず、3カ月後、その時の傷がもとで病死する。墓は会津若松市の柴家の菩提寺であった惠倫寺にある。ページ324
繰り返すが、韓国併合は武力を用いて行っれたものでもなければ、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行っれたものでもない。あくまで両政府の合意のもとでなされ、当時の国際社会が歓迎したことだったのである。もちろん、朝鮮人のなかには併合に反対するものもいたが、その事を以て併合が非合法だなどとは言えない。ページ327
ただ結果論ではあるが、100年以上後の現代まで大きく国内および国際問題となった状況をみれば、韓国併合は失敗だったと言わざる得ない。日本は大韓帝国に対し、あくまで保護国として自立させる道を選ぶべきだった。その場合、韓国の自立や近代化おそらく何十年も遅れたことだろうが、それが両国にとって最善の道だったと思う。ページ328
しかしながら財閥解体と農地改革はGHQでなければできなかった。例外もあったが、この大胆な改革があったために、戦後の日本は戦前と比較して極めて平等性と自由競争に富む社会となったといけなくもない。ページ439
ここで思い出してほしいのだが、この同じ年(1964年)に昭和天皇が日本の復興と無事を祈り、崇徳天皇の御霊を鎮めるために香川県坂出市に勅使を遣わして百年ぶりの式年祭を執り行わせている。ページ459