下流社会

かつてのベストセラー「下流社会」を読みました。今ではあたり前の分析ですが、当時は衝撃を受けました。特に、「下流」とは「下層」ではないこと、意欲のない人が「下流」なのだというあたりが斬新でした。今、読んでもはっとするところが多々ありました。備忘します。

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

単に物の所有という点から見ると「下流」が絶対的に貧しいわけでは無い。では「下流」には何が足りないのか。それは意欲である。「中流」であることに対する意欲のない人、そして「中流」から降りる人、あるいは落ちる人、それが「下流」だ。(6ページ)
こういう中流化トレンドの中で日本の家電産業、自動車産業、アパレル業界など、あらゆる産業が売り上げを伸ばしてきたのである。だから日本の企業は中流向けに商品を作るのが得意になった。だが上流向けに商品を作るのは苦手だ。(32ページ)
15から34歳の若者を正社員、フリーター、失業者、無業者で4分類すると、親を含めた世帯全体の所得が高いほど正社員が多く、低いほど無業者が多いという相関があるという。つまりそもそも正規職員として雇用されるような人間になっていること自体が、親の所得階層とその階層制に基づく生活と価値観などによって規定されているとも言えるのである。よって就職できたから勝ち組なのではなく、そもそも勝ち組だから就職ができたのかもしれないのだ。(73ページ)
このように高度成長期は、低い階層の人ほど多くの希望と可能性を持ち、高い階層の人ほど、それまであった権利を縮小された時代であり、その意味で、個別具体的な物事例はともかく、総じて言えば、希望格差が縮小する時代であったと言える。しかし、現在は将来の所得の伸びが期待できる少数の人と、期待できない多数の人、むしろ所得が下がると思われる少なからぬ人に文化している。多くの意図が共有できた情緒上の希望が現在は限られた人にしか与えられない。しかも希望が持てるかどうかが、個人の資質や能力ではなく親の階層によって規定される傾向が強まっている。(110ページ)
…裕福な専業主婦になるためにも高学歴が必要である。なぜなら、収入の高い男性と出会うためには一流企業に入った方が有利であるが近年一流企業に入るためには、たとえ一般職でも4年制大学卒であることが求められるからである。つまり自分で給料を稼ぐにしても、夫に稼いでもらうにしても、大卒が有利になったのである。(122ページ)
…150万円未満では結婚の可能性はないし、 300万円未満でもかなり難しい。 300万円を超えるとようやく結婚が可能になり始め、 500万円を超すと一気に結婚が現実になり、 700万円を超えると9割、 1,000万円を超えると100%結婚できるのである。この数字は夫婦とも所得がある場合は、夫婦の合計であり、男性だけの所得ではない、しかし所得が高いかどうかが男性が結婚できるかどうかとかなり強く相関してることは確かである。(126ページ)
こうした結果を見る限り、男女の給与格差はあった方が結婚しやすいし、結果、子供を産んで、生活満足度も高まるという傾向があることは否めない。なんでも男女平等にすることは政治的には正しいが、少なくとも現時点の日本人の素直な結婚感情にとっては必ずしも正しくないのかもしれない。(130ページ)
つまり若いうちは親元にいて、その後、結婚して夫婦だけで暮らし、子供が出来たらできれば親元にするのが最も「下」になりにくい生き方だということである。(134ページ)
実際に30歳以上の女性で、年間個人所得400万以上の女性の階層意識は「上」が多く、かつ年をとるほど「上」が増える。 400万円あれば30代で未婚でもハッピーなのである。 (140ページ)
少なくとも現状では最も階層意識が高く生活満足度も高いのは行くな男性と専業主婦と子供のいる家庭であり、地序で裕福な夫婦のみの世帯である。未婚でも既婚でも、一人暮らしでもパラサイトでも、子供がいても、いなくても、専業主婦でも、共働きでも、同じような階層意識と満足度が得られるほど多様化した状態にはなってないと言えるであろう。 (152ページ)
…自分らしさにこだわりすぎて、他者とのコミニュケーションを避け、社会への適応を拒む若者は、結果的には低い階層に属する可能性が高いのである。(174ページ)
ドラゴン桜」は…東大に入れるかどうかは先天的な能力の差ではなく、挨拶するとか、脱いだ靴を備えるといった当たり前の生活態度が基礎にあり、その上で問題をテキパキと解いていくことが重要だと主張する。まさに社会の下流化にパンチを浴びせる傑作である。…ちなみに100マス計算で有名になった景山秀雄は、実は100マス計算だけで脚力を向上笹野ではないと言う。では何をしたかというと、早寝早起き朝ごはんを週間ずれたのである。そういう生活の基本から教えないと、下流化した現代の親は、夜の10時過ぎに子供を連れて居酒屋やカラオケに行ってしまう。これではゆとり教育でなくても学力が下がるのは当然であろう。(177ページ)
インターネットは遠く離れた地域と瞬時にコミニュケーションがとれ、広い世界を縮小したと言う意味で世界の縮小をもたらした。しかし同時にインターネットは人間が実際に出会う他者の数をもしかすると減らす危険もあり、実際に歩き回る行動半径と言う意味でのリアルな世界を縮小させる面があることも否定できない。つまりもともと狭い日常の世界がさらに縮小する危険もあるのだ。簡単に言えば、井の中の蛙を増やすのだ。インターネットという世界への窓は使いようによっては「バカの壁」となる。それに気づかず広い世界が狭くなったと信じ込んでいるのはバカだというのが養老猛が言いたいことだろう。自分と同じような人間とだけ付き合って、俺たちは皆平等だ、中流だと思っていても、いつか知らぬ間に同じ世代の中ですら拡大している格差に気がつかないという危険だってあるのに。(260ページ)