奥の細道をよむ

奥の細道をよむ」を読みました。素晴らしい本です。「おくの細道」はオーディオブックで何十回も聴いています。通読も度々しているお気に入りです。この本に、今まで疑問に対して、ひとつの答をいただきました。「不易流行」と「かるみ」のそれぞれの意味と関係を理解しました。「禊ぎ、歌枕巡礼、宇宙、浮世帰り」の四部構成になっており、これは連句に影響されていることも理解しました。

「奥の細道」をよむ (ちくま新書)

「奥の細道」をよむ (ちくま新書)

このささやかな旅が、その後の芭蕉の俳句と人生にとって豊かな収穫をもたらしたばかりか、俳句や人々の生き方に大きな影響を与えることになった。なぜか。それは芭蕉がこの旅によって見出した「かるみ」のゆえである。芭蕉は「おくのの細道」の旅の途上、「かるみ」に気づき、旅を終えた後、この「かるみ」を積極的に説き始める。「おくのの細道」とは「かるみ」発見の旅だったのである。(9ページ)
「秋深き隣は何をする人ぞ」この句を「秋深し隣は何をする人ぞ」と誤って覚えてる人もいるが本当は「秋深き」である。「秋深し」なら…現代の殺伐たる世相を反映して隣は何をしていようと知ったことではない、という意味…。これが「秋深き」だと隣は秋の深みの底で我が家は深と静まっている、いったい何をしてるのだろうかという意味になる。万感籠もる「秋深き隣」なのだ。(22ページ)
人生は初めから悲惨なものである。苦しい、正しいと嘆くのは当たり前のことを言っているに過ぎない。今更、言っても仕方がない。ならば、この悲惨な人生を微笑を持ってそっと受けとめれば、この世はどう見えてくるだろうか。芭蕉の心の「かるみ」とはこのことだった。「かるみ」の発見とは嘆きから、笑いの人生の転換だった。「おくのの細道」の旅の途中、芭蕉が見出した言葉の「かるみ」はこうした心の「かるみ」に根ざして所から生まれたものだった。(29ページ)
「島々や千々事にくだきて夏の海」 芭蕉は松島で少なくともこの一句を詠んでいる。しかし、…地の文では言葉を尽くして松島をたたえながら、これはどうしたことか。ここに芭蕉の松島の一句が入っていれば、話が出来すぎてしまう。それはは面白いくないと芭蕉は思ったに違いない。そこで松島の句をあえて入れなかったということだろう。その結果松島という歌枕は手つかずのまま残され、「おくの細道」の世界は私幅を超えて果てしなく広がることになった。(137ページ)
芭蕉が考えた不易流行は何よりもまず1つの宇宙観であり、人生観だった。人は生まれ大きくなり子供を産んで、やがて死ぬ。時の流れに浮かんでは消えてゆく。…この宇宙は変転きわまりのない流行の世界である。ところが変転する宇宙を原子や分子のような塵の世界ででとらえ直すと…これは一見流行の世界のようだが、…まさに流行にして不易の世界である。芭蕉の言うとおり、「その元は一つ」なのだ。(189ページ)
人生は確かに悲惨な別れの連続だが、それは流行する宇宙の影のようなものである。そうであるなら、流行する宇宙が不易の宇宙であるように、悲しみに満ちた悲惨な人生もこの不易の宇宙に包まれているだろう。そう気づいた時、芭蕉は愛する人々との別れを、散る花を惜しみ、欠けてゆく月を愛でるように耐えることができたのではなかったか。これこそが「かるみ」だった。このように「かるみ」には不易流行と密接な関わりがある。そして不易流行がそうだったように、「かるみ」はまた俳句論である前に人生観だった。この「かるみ」という人生観が「おくの細道」以降、芭蕉晩年の俳句に抜き差しならぬ影響及ぼしていくことになる。(196ページ)
「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」芭蕉が大垣に集まった人々との別れに詠んだ…「行く春や鳥啼き魚の眼は泪」芭蕉は…旅立ちにあたって、深川から見送りの人々と船で隅田川を遡り、千住で船から降りると、わ別れに臨んでこの句を詠んだ。行春の句も蛤の句も別れの句であり、舟に関わりがあり、背後に川が流れている。…蓋と身に分かれるのは蛤にとって痛みを感じているはず。私もその痛みに耐えて君達とここで別れるというのだが、この句は蛤の蓋がおのずから開くような安らかな感じがする。ここには嘆きも涙もない。耐え難い別れをさらりと読んでいるだけだ。さながら流れ去る水のように淡々としたこの境地こそ、古池の句を読んでから3年後、「おくの細道」の旅で見出した不易流行と「かるみ」の紛れもない成果だった。(232ページ)