エゾの歴史

「エゾの歴史 北の人びとと日本」を読みました。学術論文です。エミシ、エゾ、アイヌについて種々の解釈を示していますが、「エミシ」は中世、東北以北に住んでいた人、「エゾ」は近世、和人を含む北海道に住んでいた人、「アイヌ」はアイヌ民族だと理解しました。ことは重大で、日本史を書き換える必要すら生じます。すなわち「エミシをアイヌ民族と理解するならば、民族的対立が日本列島の北部で千年以上も続いたことになり、…非アイヌ民族説に立てば…単なる国内平定戦となる…(p.33)」また、函館検定公式テキストブックでは「コシャマインの戦いで和人館12のうち10が陥落した、武田信広の奮戦で大将コシャマインを討ちとった」と簡単に書いています。しかし、コシャマインの戦いがエゾの歴史の大きな転換点でした。奥州藤原三代滅亡から津軽の安藤(安東)、さらに蠣崎(松前)がエゾ地の交易権を握ったこと、中国、ロシアの影響もあり、江戸、北前船を経て明治に至っています。滔々たる北海道の歴史を俯瞰しました。備忘します。★★

エゾの歴史 (講談社学術文庫)

エゾの歴史 (講談社学術文庫)

明治になって秋田家(安東家の末)は華族に列せられ…宮内省から…ながすね彦の兄の子孫では困る…秋田家は…恐れながら当家は神武天皇ご東征以前の旧家ということをもって、家門の誇りといたしております。天孫降臨以前の系図を正しく伝えておりますものは、憚りながら出雲国造家と当家のみしかない…(p.116)
…縄文文化期から擦文文化期まで北海道・北部東北地方は、文化的・社会的に共通しており、とりわけ津軽海峡をはさんだ地域は一体化している事実が判明している。(p.141)
エゾ政権蠣崎氏は…和人政権=松前藩となった。しかしながら、この藩は藩とされながら、幕府よりなんらの石高、所領範囲も明示されず、参勤交代も5〜6年に1回でいいという、実におかしい藩であった。(p,188)
松前藩は「商人の藩」として理解するのが正しい。…松前藩士は、たまたま、商人が帯刀していると考えるとよい。(p.224)