社交する人間

国家や企業が生きる規範としての機能を失いつつあります。グローバル化、ネットワーク化の進展に対して「社交」(つかずはなれず)の復権を提唱しています。契約社会から信用社会への転換です。これからの社会がどう変転するかの解答を与えられました。今年読んだ本の中では最高の一冊です。備忘します。

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

工業以前の社会では人間は自然を相手に働き、工業社会では機械を相手に働いたに対して、ポスト工業化社会では人間は人間を相手に働くことになる。具体的には機械の,コンベヤーシステムに強制される単純反復労働の比重が小さくなり、より多くの人間がサービス労働や知的な共同作業や、人間を管理経営する仕事に就くことになる。労働の人間関係そのものも機械のメカニズムが求める固い秩序から解放され、より緩やかで誘導的なものに変わる。人々は制度として与えられた組織の中で働くのではなく、1回ごとに他人会いその中止のもちろん、すべての功利的社会の基盤に非合理的関係、…すなわち、社交的な人間関係があることを指摘したことである。ページ70
…これに対して、ネットワークはあらゆる点で対照的な手段であって、権力は無数の拠点に分散され、構成員の発言権には最大限の平等が保障されている。何よりも著しい特色は、この手段ではメンバーシップの曖昧さが認められていて、構成員と外部の同調者とがなだらかに連続していることである。ページ67
…ネットワーキングの主催者は、「仲間を退屈させないこと」という教訓であろう。念を押すまでもなく、これらの全て社交において主人に期待される役割なのであって、著者たちが「ネットワーキングは科学ではなく芸術である」というのも当然なのである。ページ69
…このように見るとホイジンガの遊戯とジンメルの社交とは行動の構造の点でますます近いことがわかる。どちらも功利的な行動、日常生活の行動を意識の上で転倒させ、目的追求のふりをしながら、実はその過程に集中する行動だとまとめることができる。ページ98
ホイジンガは人間の行動の類型を比較する際、最初から遊びと真面目な仕事の2つしか念頭に置いていなかった。彼が完全に忘れていたのは、彼の言う日常生活の大部分がそのどちらでもなく、いわば第三種の行動、曖昧で不定形の行動に満ちているという事実であった。…実は大多数の人間は日常ではこの受動性の中に眠っているのであって、時たまそこから身を起こして遊んだり仕事をしたりしてるに過ぎないのである。ページ101
…どうやら穏当なのは、文化の始源には、先ず遊びとも仕事ともつかない行動があって、それがやがて2つに分化したと考えることであるように思われる。ページ104
…先に暗示したように、それこそが社交であり社交の中での人間関係であった。遊びとも真面目ともつかないつかない行動がまず先にあって、それが社交の場に持ち込まれたときに遊びに転じるのである。ページ105
…社交とは個人同士の付かず離れずの関係であり、友情とは意識的に選択するものであると同時に、自動的に生まれるものであった。社交の手段は閉じられながら開かれた世界だったし、その中では、合理的な規律があたかも体の癖のように自然に守られる場所であった。ページ155
…そこで根源的な物品のやりとりが発生したとすれば、そのときはいかなる種類の欲望でもなく、純粋な好奇心であったと考えるほかないのである。ページ185
…いわば人々は社会の統合力には2種類があること、権力と権威、組織化と求心力が二重に働いてることは、事実として目の当たりにしていたのである。ページ236
…生産と分配は体系的な組織にこそ支えられる営みであり、閉じられた国家の体制に最も適応しやすい営みであった。それが開かれた贈与と交換の経済に道を譲ろうとし始めたとき、21世紀の国家もまたその役割の限定を経験しつつあるのは、もちろんただの暗号ではないはずである。ページ248
…人間の生活を自然と文化の両極に分け、その間の多様な生活の姿を生み出すのはリズムの両義的な構造に他ならない。生活が自然に近づくかより文化的になるかは、リズムがより受動的に傾くか能動性を強めるかの違いによる。生き方が受動的に流れれば流れるほど、それはより多く自然の反射現象に従うことになり、生物的人間の生き方に近付くことになる。それに対して生活が真のリズム構造を帯び、受動性と能動性が程良い均衡保つ時、それは文化的な生活になると見ることができる。ページ270
…人間は決して純粋な静止状態から行動を起こすことはなく、常に潜在的な運動状態の中に生きていて、その中で改めて行動決意するのだと先に述べた。それを別の言葉に変えれば、人間は常にこのこみ上げてくる気分の中にいるということであり、いわばショーペンハウエルの言う盲目の意志にのせられ、受動性の中で能動に転じるということなのである。ページ279
…社交社会の中にも複数のサロンがありうるから、具体的には1人の個人はおびただしい数の規範に従って生きることになる。言い換えれば、1人の個人は無数の自我の束として生きることになるわけだが、それは決して…演技的に生きることを意味しない。与えられた規範を偽物と感じながら自らをあざむいて服従するふりをすることを意味しない。ページ334
…企業を拡散に導くのはまさに企業規模のあくなき巨大化なのである。自明のことだが、企業の特徴が集団の構造と指導者のイメージの明確さにあるとすれば、従業員にとって集団の拡大は両者のみえにくさにつながるからである。…本来の企業はまた従業員のメンバーシップを限定し、その忠誠心に期待するという点で内に閉じる傾向含んでいた。企業の地球的な展開と多国籍化は当然の結果として、構成員のこの閉じられた求心力を失なわせるはずである。 ページ345
…社交とは個人が付かず離れず、中間的な距離を保つ営みであることを暗示している。社交的な人間は「付き合いが良い人」であるとともに何事にも「付き合い程度に」行える人でなければならない。…言い換えれば社交的な人間は真に他人に対して積極的な人間である、関係をいわば手作りにして、刻々に紡ぎ続ける人のことであることが要求される。彼らまず社交の始まる前に自立した個人であり、客に対して一座の主人となれるという意味で、社会の責任者でなければなければならないのである。ページ361
…社交社会ではこの組織への帰属が唯一のものでなくなり、婦人身元証明にとって絶対の重さを失うということである。…人々はやがてどんな組織にも付かず離れずの態度で臨み、組織内の地位もあたかも芝居の役のように、ゲームの競技者の役割のように演じ始めることが考えられる。言い換えれば将来の組織集団は階層構造の形式だけを残しながら、実質はネットワーキングに近づくことが予想されるのである。ページ363
…克服できないリスク社会の克服を目指すのではなく、それと並存できる別種の社会を避難所とすべきだろう。それが社交社会であり、具体的にはサービス交換の社会であるのは繰り返すまでもなかろうが、あえて別の表現を加えるなら、契約社会に対する信用社会と名付けても良い。ページ369