多読術

20年ほど前に松岡正剛さんにお目にかかりました。代官山のオフィスでした。瀟洒な佇まいの印象が記憶に残っています。話の内容は覚えていませんが、話がかみ合いませんでした。多分、私のレベルが低かったせいでしょう。この本は、沢山読むためのノウハウを書いた本ではありません。誘惑されるために、知らない土地を旅するように、本は読むのだと言ってます。読書の達人の論です。勉強になりました。未だ至らず。備忘します。

多読術 (ちくまプリマー新書)

多読術 (ちくまプリマー新書)

読書は大変な行為だと思い過ぎないことです。読書についてを、ちょっとフィジカルで、ちょっとメンタルな日々の行為の1つに感じられるかどうかそこだけです。ページ22
…読書はどんな本をどんな読み方をしてもいいと思います。スキルアップのために読むのも、食材のように楽しむのも、ファッションのように着替えるのも、全ていい。すべて「読書する」です。そのようにして、普段から活字や図像に触れていることがすごく重要なことで…それが基本の基本です。ページ65
…目次を見て、極々、大雑把でいいから、その本の内容を想像するというのが大事なんですね。わずか3分程度のちょっとした我慢だから、誰でもできる。そうしておいて、やおら、ぱらぱらとやる。ページ71#
ぼくは個性の本質は「好み」だろうと思っています。最初から個性というかたまったものがあるわけではない。好みの揺れ幅のようなものが個性を作っているんです。…だから人にはそれぞれの本の読み方があり、好きに読めばいいんです。ページ131
本はわかったつもりで読まない方が絶対にいい。僕もほとんどわからないからこそ、その本を読みたいのです。読んできたのです。旅と同じですよ。無知から道の旅。紅葉もそこになるんじゃないでしょうか。その読書もたらす書き手のほうも、実はわからないから書いている。多くの女性たちも、作家たちもそうですよ。自分では分からないことだから、その方をその作品を書いている。ページ138
…せっかくなのでキーブックを教えてください。…これはあくまで僕の読書体験から得たものですよ。それで言えば、例えば宮本常一の「忘れられた日本人」とか、ヘルマンヘッセの「デミアン」とか、ミシェルフーコーの「知の考古学」とかはどうですか。ページ155
…第一には読書は現状の混乱している思考や表現の流れを整えてくれるものだと確信していることです。癒しというのではなくて、ぼくはアライメント、すなわち整流というふうに言ってます。…第二に、そもそも思考や表現の本質はアナロジーであり、連想であると思っているということです。科学も小説も、人物も芸術も、思考や表現の本質の大半はアナロジーであり、類推であり連想であると確信しているんです。つまりどんなことも固く考えていないんですね。…第三に僕の元気がでてくる源泉や領域は、皆さんには意外かもしれないけど、必ずやあいまいな部分やきわどい領域や、余分なところだと確信しているという事ですね。ページ165
狩野亮吉という熊本五高で漱石といっしょに教鞭をとっていた人物がいるんです。…社会派弁護士として有名だった正木浩が狩野先生こそ本当の国宝的人物ですと述懐しています。ページ174。
そもそも出来事や社会や世界を見るための視点は二つあるんです。一つはオムニシエントな視線で、俯瞰的にその世界を眺められる「鳥の目」で、もう一つはオムニプレゼントの目によってその世界の中に入っていってみる「足の目」です。ページ178
…「書くモデル」と「読むモデル」の関係の重層性が大事なんです。その間に「編集するモデル」を入れることが大事なんです。それを「鳥の目」で言うと、人類は大きくは「音読」から「黙読」へ、さらに「黙読」からで「デジ読」に変えてきた。それはいいでしょう。なんといってもイノベーションですからね。しかし、その大変化のために、そこには何かの間が変換したんだという自覚が必要です。ページ189
本には書くモデルと読むモデルが重なっているんだという見方を何度かしてきました、それは本を読むということが他者が書いてる作った物と接するということだったからです。それを一言で言えば、読書は交際であるということです。しかしその交際はとても微妙で、ドギマギしたものを含んでいる。いやそうでなくては、読書つまらない。だから僕の読書術があるとすると、その根底には何かギリギリのところで他者に攫われてもいいと思ってるという感情があるわけです。ページ199