弱いロボットの思考

「弱いロボットの思考」を読みました。前著もよくよんでいましたし、テレビの番組でも何度もみていましたので、先生の考えは素直に読めました。コミュニケーションの本質に迫る議論です。ルンバの不完全さがかえって親しみをもって迎えられたというのは、実際に使ったときの実感です。その通りです。備忘します。

知性のありかとして私たちの頭の中ではなく、むしろ体と環境とのかかわりそのもの、いわゆる身体性ということがにわかにクローズアップされることになる。例の行き当たりばったりとも思えたお掃除ロボットの行動にも、もう少し深い意味が隠されていたということだろう。なぜ私たちは周りに委ねようとするのか、なぜ自らの中で完結させようとしないのか。ページ58
「不完結な言葉は、内的説得力を持つ」のだという。わずかでも「生きた意味」が備わっていたとすれば、それは他にそっとゆだねるようなスタンス、そして他社との調整の余地から生まれてきたものなのだろう。発話の「不完結さ」や本源的な「弱さ」が聞き手とのあいだでリアルなカップリングを生み出すようなのである。ページ120
アシモと私たちの間にある共通したものは? その身体的な共通基盤とは? そうしたことを考える上で、単に「人型である」「二速歩行する」というだけではなく、この「ドキドキしつつも地面を味方にして歩く」という行動様式やその背後にある不完結さにも目を向けておきたい。私たちのお掃除ロボットに対する共感も、周囲を味方につけながら…という<委ねる>⇆<支える>の行動様式に起因しているようなのである。ページ131
私達のコミュニケーションの基底にある身体的な基板ということについて考えてみた。何気なく歩く、何気なく話す。自らの内なる視点から発語や行為を繰り出す際に、その意味合い役割を完結できない。そうした不完結さや弱さを内包した体は、ドキドキしつつも他に委ねつつ、一緒に行為を生み出していくという方略を選びとっていた。それを一方で支えている他社もまた然りである。ページ147