こころはどう捉えられてきたか

「こころはどう捉えられてきたか」を読みました。副題は「江戸思想史散策」です。江戸時代の泰斗、伊藤仁斎荻生徂徠本居宣長という3人の「こころ」の見方を解説しています。朱子学に強く影響され、中国古典に回帰した仁斎や徂徠も魅力的な考えですが、本居宣長の単純明快な死生観に魅了されました。「死んだら終わり、善悪を超えている(良いことをしても天国にはいけない)」さすが「古事記伝」の作者です。備忘します。

神とは、古事記日本書紀などに名前が見える神々、各地の神社には積まれている神々を始めとして人はもちろん、何であれ尋常ならざるパワーがあって畏怖すべきものはすべて神ということである。…善悪といった基準には関わりなく、尋常ならざるものは、すべて神なのである。雷、木霊、狐、狼なども優れて怪しきものにて神とされる。海や山についても抽象的なものが神なのではなく、いとかしこきものとして海や山それ自体が神なのだとする。ページ196
つまり本居宣長から見れば、厄災という悪も倫理的な悪も同じ悪なのであって、その由来は黄泉の国の穢れがこの世の中に持ち込まれたことにある。その反対に、「吉」と「善」も合体して1つのものとなる。天災や病気の流行、様々なまがまがしい事件、政治的な暴虐、人間や人間集団が犯す悪行など、これらは、全て1つのカテゴリに包まれるべきものである。 それらの由来は1つなのであるから。放置しておけば、世の中は、これらの凶悪で満ち満ちてしまうだろうが、マガツヒノカミの後にナホビノカミが生まれ、マガツヒノカミがもたらした「凶悪事邪曲事」を直してくれる、「凶悪事邪曲事」のなかった元の状態に回復させてくれる。これが本居宣長によるイザナギの「禊ぎ祓い」の解釈である。ページ202
身分や当人の倫理性などには関係なしに、誰もが死の穢れの世界に行かなければならない。私たちは、生きてる間は、穢れを祓い、清浄を回復をさせる事で「禍」を最小限にさせるように努める。しかしそれも、生きてる間のことであって、死んでしまえば、どれほど高潔な人生を送った人であっても、死ぬというそのことにおいて、穢れに満ちた黄泉の国にいかなければならないと本居宣長はいうのである。こーゆーニヒルというべきか、本居宣長は、恐ろしく救いのないことを考えている。ページ210
神々の不可知な力からは人間の生を賦活化させる力(善)と、人間の生に打撃を与える力(悪)の絡み合いであって、その複雑な力の合成の世界の中で、人間は生きている。 そして人間の霊魂は、死後必ず穢れに満ちた黄泉の国に行くのであり、それはどうしょうもないことなのだと宣長は言い切る。こういう考え方の根底にあるのは、心の管轄する範囲、つまり人間が責任を負うべき領域として限りなく問題を背負い込むことしないということではないだろうか。どうにもならない力の前で人間は小さな存在である。ページ 212