死の授業

「死の授業」を読みました。60歳を超えたら、いつお迎えがきてもおかしくありません。死ぬ確率は100%です。考えると悲しくなるので普段は考えませんが、善く生きるために死を意識することは大切なことだと思います。昨年、ガンの疑いで精密検査をしている時に思い知らされました。「ついに行く 路とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」在原業平の辞世の句が身に沁みます。
本書の著者は看取りを2000例以上経験している医師です。複数の一般人と「安楽死」「尊厳死」について議論をする形式です。わかりやすい説明です。日本では「尊厳死」「安楽死」が混同されていること、マスコミを含め「死」について語り合うことがタブーになっていることを指摘しています。「安楽死」は殺人に近いので認められないが、延命治療を本人の希望で停止する「尊厳死」は認めても良いのではないかという立場です。何よりも法整備が整っていないので現場の医師はどうして良いかわからないそうです。成人後見の制度では、後見は財産だけで。医療については、未だに親族のみの判断です。自分の死について明快な文書を残しておくことが大事な準備であることを了解しました。備忘します。

長尾和宏の死の授業

長尾和宏の死の授業

現代は、待たなくても良い社会、待つことができない社会になった。私たちは意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をなくし始めた。偶然を待つ、自然を超えたものに付き従う、未来というものの訪れを待ち受けるなど、待つという行為…ページ102
現代において95パーセントの人は、このどれかで死んでいくといわれている、つまり95パーセントの人には終末期があるともいえます。現代日本において終末期がない、つまり事故や自殺、また急病などによって突然死する人が約5パーセントいるということがわかっています。ページ106
お風呂で突然死する人が年間2万人もいるんです。会社の後に同僚といっぱい呑んで帰ってきて、今日は疲れたと、つい寝てしまい、溺れて死んでしまった、というケースです。ページ109
痛みには四種ある。肉体的痛み、精神的痛み、社会的痛み、魂の痛み。これが四種が全人的な痛みとも言われ、人が人として感じる痛みです。…魂の痛みとは「なぜ生きてきたのか」「自分の生に価値があったのか」「どうしてあの時、別の道を歩まなかったのか」「死んだら私はどこに行くのか」など自分の人生を振り返り、精神について根源的な意味を問い正そうとすることで生じる痛みです。ページ119
…すなわち、金持ち保険と貧乏人保険、そして無保険者に分かれる日がやってくるかもしれない。貧乏人保険では、きっと現状の延命治療は認められなくなるでしょう。現在のアメリカと同じですね。だから 近い将来はもしかすると、日本は尊厳死のできない国ではなくて、尊厳死しかできない国になるかもしれません。その可能性が高い。これはブラックジョークでもなく現実です。ここにいる皆さんが老人になる前に訪れる現実なのです。ページ153