ホモ・デウス

「ホモ・デウス」を読みました。「ファクトフルネス」で打ち砕かれ、本書でとどめを刺されました。これまでの世界の見方を変えなければいけません。ホモ・サピエンス(人類)はこれまで不死と至福と神のような力の獲得を目指す道をたどっていましたが、論理的な帰結としてホモ・デウス(超人、神のような力を持つホモ・サピエンス)になると予測しています。ホモ・サピエンスが今の家畜やサルの立場になるということです。詳細な解説に圧倒されました。資本主義は宗教に近く、民主制も人間至上主義もただの虚構にすぎないことが分かりました。世界はただの共同幻想であるということです。さらに、生物は「アルゴリズム」であり、生命は「データ処理」であるという科学者の通説も納得できました。現代の政治、経済、文化もこの視点で考え直すと恐ろしい未来が見えます。ビッグデータ、AIの急速な発展の帰結です。民主制、人間至上主義が脅かされています。ただし、まだ解明されていない「意識」がホモ・デウスの出現をさまたげるかもしれません。それにしても、数十年後には今とは全く違う世界になると理解しました。

種々の生命科学によれば、幸福と悲しみはそれぞれ、様々な身体的感覚同士の異なるバランス以外の何者でもないという。私たちは外の世界に反応することは決してなく、自分の体内の感覚に反応しているだけだ。上ページ50
エピクロスはおよそ2300百年前、快楽を過度に追求すればおそらく幸せではなく惨めになるだろうと、弟子たちに警告した。その2世紀ほど前、ブッダはそれを輪をかけて過激な主張をし、快楽の追求は実は苦しみのもとに他ならないと説いた。ページ57
率直に言って、心と意識について科学にわかっていることは驚くほど少ない。意識は脳内の電気化学的反応によって生み出され、心的経験は何かしら不可欠なデータ処理機能を果たしているというのが現在の通説だ。とはいえ、脳内の生化学的反応と電流の寄せ集めが、どのようにして苦痛や怒りや愛情の主観的経験を生み出すかは、誰にも全く想像がつかない。上ページ137
今日、人間は地球を完全に支配しているが、それは個々の人間が個々のチンパンジーや狼よりもはるかに利口だったり手先が器用だったりするからではなく、ホモサピエンスが大勢で柔軟に協力できる地球上で唯一の種だからだ。上ページ165
革命を起こすには、数だけでは絶対に足りない。革命は大抵、一般大衆ではなく運動家の小さなネットワークによって始まる。もし革命を起こしたければ、「どれだけの人数の人が私の考えを支持してるか?」と自問してはならない。その代わりに、「私の支持者のうちには、効果的に共同できるものがどれだけいるか?」と問うといい。上ページ167
貨幣が共同主観的現実であることを受け入れるのは比較的易しい。大抵の人は、古代ギリシャの哲学や神々や邪悪な帝国や異国の文化の価値観が想像の中にしか存在しないことも喜んで認める。ところが、自分たちの神や、自分たちの国や、自分たちの価値観がただの虚構であることは受け入れたがらない。なぜなら、これらのものは私たちの人生に意味を与えてくれるからだ。上ページ181
北朝鮮と韓国があれほど異なるのは、ピョンヤンの人がソウルの人とは違う遺伝子を持っているからでもなければ、北の方が寒くて山が多いからでもない。北朝鮮が、非常に異なる虚構に支配されているからだ。上ページ189
このように書字のおかげで、人間は社会を丸ごとアルゴリズムの形で組織できるようになった。情動とは何かや脳はどう機能するかを理解しようとしたときに、私たちは「アルゴリズム」という言葉に出会い、計算をしたり、問題を解決したり、決定を下したりするのに使える一連の順序だったステップと定義した。上ページ199 虚構は悪くはない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け入れられている物語がなければ、複雑な人間社会は1つとして機能し得ない。上ページ218
おそらくほとんどの資本主義者は、宗教というレッテルを嫌うだろうが、資本主義は宗教と呼ばれても決して恥ずかしくはない。天上の理想の世界を約束するほかの宗教とは違い、資本主義はこの地上での奇跡を約束し、その上それを実現させることさえある。下ページ19
人間至上主義はこのように、経験を通して無知から啓蒙へと続く、内なる変化の斬新的な過程として人生をとらえる。人間至上主義の人生における最高の目的は、多種多様な知的経験や情動的経験や身体的経験を通じて知識を目一杯深めることだ。下ページ54
本書は、21世紀には人間は不死と至福と神聖を獲得しようとするだろうと予測ことから始まった。この予測はとりわけ独創的でもなければ、先見の明のあるものでもない。それはただ、自由主義的な人間至上主義の伝統的な理想を反映してるにすぎない。人間至上主義は人間の命と情動と欲望を長らく神聖視してきたので、人間至上主義の文明が人間の寿命と幸福と力を最大化しようとしたところで、驚くまでもない。下ページ100
経験する自己と物語る自己は、完全に別個の存在ではなく、緊密に絡み合っている。物語る自己は、重要な原材料として私たちの経験を使って物語を創造する。するとそうした物語や、経験する自己が実際に何を感じるかを決める。下ページ123
ここまでは、自由主義に対する3つの実際的な脅威のうち、2つを見てきた。その第一は人間が完全完全に価値を失うこと 、第二が人間は集団として見た場合には依然として貴重ではあるが、個人としての権威を失い、代わりに、外部のアルゴリズムに管理されることだ。…自由主義に対する第三の脅威は、一部の人は絶対不可欠でしかも解読不能のままであり続けるものの、彼らが、アップグレードされた人間の、少数の特権エリート階級になることだ。下ページ183
もし科学的な発見とテクノロジーの発展が人類を、大量の無用な人間と少数のアップグレードされた超人エリート層に分割したなら、あるいは、もし権限が人間から知能の高いアルゴリズムの手にそっくり移ったなら、その時には自由主義は崩壊する。下ページ888
政治学者たちも、人間の政治制度を次第にデータ処理システムとして解釈するようになってきている。資本主義や共産主義と同じで、民主主義と独裁制も本質的には、競合する情報収集・分析メカニズムだ。下ページ216
20年前、日本人旅行者は万人の笑い草になっていた。いつもカメラを構えて目にしたもの全て写真に撮っていたからだ。だが、今では誰もが同じことをしている。インドに行ってゾウを目にしたら、ゾウを眺めて、「私は何を感じているか?」と自問したりしない。スマートフォンを出してゾウの写真を撮り、Facebookに投稿し、その後は自分のアカウントを2分おきにチェックして「いいね!」をどれだけ獲得したかを見るのに忙しいからだ。下ページ232
データ至上主義が世界を征服することに成功したら、私たち人間はどうなるのか? 最初は、データ至上主義は、人間至上主義に基づく健康と幸福と力の追求を加速させるだろう。 人間至上主義のこうした願望の充足を約束することによって、データ至上主義が広まる。不死と至福と神のような創造の力を得るためには、人間の脳の容量を遥かに超えた、途方もない量のデータを処理しなければならない。だから、アルゴリズムが私たちに代わってそれをしてくれる。ところが、人間からアルゴリズムへと権限がいったん移ってしまえば、人間至上主義のプロジェクトは意味を失うかもしれない。ページ243
1 科学は1つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物は、アルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。
2 知能は意識から分離しつつある。
3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。
この3つの動きは次の3つの重要な問いを提起する。
1 生き物は本当にありがとアルゴリズムすぎないのか? そして生命は、ほんとうにデータ処理に過ぎないのか?
2 知能と意識のどちらの方が価値があるのか?
3 意識は持たないものの高度な知識を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?
下ページ 246