老師と少年

「老師と少年」を読みました。古い昔の傷をえぐられました。「死ぬこととは?」「信じることとは?」「虚しいこととは?」。忙しさの中で、「またあとで考えよう」と避けていた問題が、いよいよ高齢になり対峙しなければならない時期になりました。難しいことを簡単に説明していますが、よく考えると難しい、繰り返し自問自答して読了しました。短い文章のなかに智慧が満載しています。備忘します。
考えて

老師と少年 (新潮文庫)

老師と少年 (新潮文庫)

考えてしまう人と考えなくて済む人がいるだけだ。そして考えなくて済む人が、世の中の仕組みを決めていく。その夜世の中で、考えてしまうとは迷い、遅れ損をする。ページ12
求めてはいけない、。理由はないのだ。これは決断なのだ。友よ、君は自ら死を選んではいけない、でも。ぼくは死を選べるのです。死は悪いことではないと師も今言ったではないですか? 選べるからなのだ。選べるから死ではなく生を選ぶ。それだけが、この世の善を生み、善を支える。
…師の選ばれた生は善き生なのですか? そうではない。生に善悪はない。人は良き世があると信じ、それを求めて罪悪犯すことはさえある。選ばれた生が、善きことを生み出すことがあるというだけなのだ。ページ21
「本当の」と名のつくものは、どれも決して見つからない。それは「今ここにあること」の苛立ちに過ぎない。苦しみ過ぎない。「本当の何か」は見つかった途端に「嘘」になる。また苛立ちが、還ってくる。もし「本当の何か」が見つかったとすればそれはどれもこれも全て、ある時、ある場合に、人の都合でとりあえず決めた約束事にすぎない。ページ34
そうだ。これは理解することではない。信じるのだ。理解できないから受け入れられない。神はそれを罰する。生まれる前に神の子であったお前は、そうであるにもかかわらず、ほかの苦しむ人々と同じように、神を受け入れず、その傲慢さゆえに神に罰せられたのだ。今お前が死ぬ意味を知らず、真の自己知らないのは、その罰なのだ…許しを請え、そして再び仕えよ!神の手に身を委ねるのだ ページ60
昼の神は虚無から目をそらすものが、代わりに見る幻想なのだ。虚無に耐えられるものが見る夢なのだ。耐えることができない弱い者たちが皆で一緒に見る夢は、彼らにとっての現実になるのだ。だが、われわれは夢から目覚めた。虚無も見たのだ。ページ73
私があるという思いを離れよ。離れたならば、もはや私は私ではない、世界は世界ではない。今は今ではない。ここはここではない。それは存在することではなく、生きることでもない。では何なのです。すると道の人が静かに言った。「断念せよ。それまでだ」と。…この世には、しなければならないことがたくさんある。しなければならないと人間が思うのは、しなくてもいいことだからだ。生きなくてもいい。だから生きなければならない。犬のように水を飲んでもかまわない、しかし水を器に入れて飲むことにすることにする。尊さはそこにある。ページ102
友よ。器を作れ。困難な仕事だ。それを何度も磨く。いちど味わって、作り直さなければならない時もある。割れた器で飲まなければならない時もある。それでも最後まで生を飲み干せ。…生が私であるとき、それは君なのだ。いつかその日がわかれば、死は喉の渇きを癒すように、安らかに訪れるだろう。君が誰であろうと。ページ103
師は私がもう一度あなたに会うことがあったら、こう伝えてくれと言ってました。「生きる意味より死なない工夫だ」と。笑いましたね。師はあなたが笑ったらこう言えと言いました。「その笑の苦しさの分だけ、君は私を知ったことになる」ページ112