歴史研究2018年4月号

「歴史研究2018年4月号」を読みました。明治スポーツプラザの先代社長、八木輝夫さんからの頂き本です。八木さんの掲載記事が二つあります。
一つは短歌コーナー「桜咲く 富岡製糸 横田英」(巻頭)です。横田英さんを知らなかったので調べてみました。富岡製糸場の技術指導をした先駆的な女性です。「春、富岡製糸場の桜をみていたら横田英の事績が絢爛と蘇った…」ような意味でありましょうか。
もう一つは、会員随想「ラファエル・フォン・ケーベル先生」。明治の初め頃、お雇い教師としてドイツから赴任、第一次世界大戦のため故郷に帰る機会を失い大正の初めに死去。東京大学で哲学、東京芸大で音楽を指導。当時の日本人に大きな足跡を残しました。明治の終わり頃、夏目漱石がケーベル先生宅を訪れた話や果たせなかった帰郷パーティのエピソードを書いています。
齢80近くにして、この知的探究心。驚くとともに、尊敬します。振り返って自らを鼓舞しました。見習うべしと。備忘します。

横田英(よこた えい、安政4年8月21日(1857年10月8日) - 昭和4年(1929年)9月26日)は、官営富岡製糸場の伝習工女。『富岡日記』を著した。
1857年 信濃国埴科郡松代(現・長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次女として生まれる。
1874年 富岡製糸場を退場し、長野県埴科郡西條村(現・長野市松代町西条)に建設された日本初の民営機械製糸場・六工社の創業に参画するとともに、その後も教授として指導的な役割を果たす。
1905年 富岡製糸場での日々を回顧して『富岡日記』を著す。(ウィキペディアより)

ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber)
ドイツ人の父とロシア人の母のもとニジニ・ノヴゴロドに生まれる。6歳よりピアノを学び1867年にモスクワ音楽院へ入学、ピョートル・チャイコフスキーとニコライ・ルビンシテインに師事し1872年に卒業した。…のち哲学に転じ、ルドルフ・クリストフ・オイケンに師事。30歳で博士号を得た後、ベルリン大学ハイデルベルク大学ミュンヘン大学音楽史と音楽美学を講じた。
1893年明治26年)6月に日本へ渡り、1914年(大正3年)まで21年間東京帝国大学に在職し、イマヌエル・カントなどのドイツ哲学を中心に、哲学史ギリシア哲学など西洋古典学も教えた。…学生たちからは「ケーベル先生」と呼ばれ敬愛された。夏目漱石も講義を受けており、後年に随筆『ケーベル先生』を著している。…東京音楽学校(現東京藝術大学)ではピアノも教えていた。…夏目漱石幸田延がケーベル邸を訪問した時の昼食レシピから、現在の松栄亭(淡路町)の「洋風かき揚げ」が生まれたというエピソードがある。
1904年(明治37年)の日露戦争開戦の折にはロシアへの帰国を拒否したが、1914年になって退職し、ミュンヘンに戻る計画を立てていた。しかし横浜から船に乗り込む直前に第一次世界大戦が勃発し、帰国の機会を逸した。その後は1923年(大正12年)に死去するまで横浜のロシア領事館の一室に暮らした。(ウィキペディアより)