日本国紀

「日本国紀」を読みました。週刊誌などで、本書をトンデモ本だとか、ウヨク本だとか、言われています。一読して、私はそうは思いませんでした。一人の人間で日本の通史を書くのは大変なことです。偏るのは当たり前です。「物語日本史」(平泉澄著)ほどは、首尾一貫しているとは言えませんが、日本人を大事にするあまり、踏み込みすぎの部分もあります。例えば、継体天皇自体が傍流であったことの記述がないことや、元寇の勝利が当然であるかのような記述は納得できません。著者の言うように、韓国併合は、清やロシアとの国際関係でやむを得ないことでしたが、福沢諭吉伊藤博文が反対したように膨大な国費を無駄にしたのは間違いありません。近隣国家とは対立するものです。その火種を残したのは痛恨でした。備忘します。

日本国紀

日本国紀

秋の終わりに収穫を祝う「新嘗祭」もその一つだが、これは建国から現在まで宮中で連綿と行われている最重要の祭祀の1つである。しかし大東亜戦争後、アメリカ占領軍の政策により、宮中祭祀、国事行為から切り離され、「勤労感謝の日」という異なる名称に変えられ、古代からの歴史の繋がりを絶たれてしまった。残念な限りである。ページ15
もし神武天皇に率いられた一族が銅鐸文化を持たない人々であるヤマト平野に住んでいた一族が銅鐸文化を持つ人々であったとしたら、どうだろう。神武天皇の一族は銅鐸を破壊したとしても不思議ではない。そしてのちに大和朝廷がじわじわと勢力を広げ、中国地方の銅鐸文化圏の国々を支配していく中で、被征服民たちが銅鐸を破壊されることを恐れてこっそり埋めたとは考えられないだろうか。ページ 21
物部氏を滅ぼした蘇我氏はやがて継体天皇の孫である崇峻天皇を殺害して、第33台推古天皇立てるなど、大きな権力を握るようになる。推古天皇は、日本初の女性天皇であり、東アジアにおいても初の女帝であった。ページ38
608年、聖徳太子は3度目の遣隋使を派遣した。日本の発展のためには、隋と友好関係を結び、優れた文化を取り入れる必要があると考えたからだ。しかしさすがに前のような手紙を書くわけにはいかない。とはいえ、日本の天子を「王」と書くと、自ら冊封を認めることになる。そこで太子は「天皇」という言葉を生み出した。このときの手紙の書き出しは次のとおりである。東の天皇つ寿司みて、西の皇帝にもうす」 太子は天皇という言葉を用いることによって、中国の皇帝と対等の立場であるということを現したのだ。煬帝はあきれたに違いないが、その言葉を使って分からないと日本に伝えた記録はない。ページ40
「和をもって貴しとなし、さかふることなきを宗とせよ」これが第一条の書き出しだが、まず仲良くすることが何より大切で、争い事はよくないと言っています。その後、何事も話し合いで決めようと続く。これは言い換えれば民主主義である。世界の国のほとんどが専制独裁国であった時代に、争うことなく話し合いで決めようということを第一義に置いた憲法というのは、世界的にも珍しい画期的なものであったといえる。ページ42
ひらがなに当たるハングルを持ったのは16世紀である。しかし、当時の学者たちからは嫌われ、ほとんど普及しなかった(公文書すべて漢文)。ハングルを普及させたのは、20世紀に大韓帝国を併合した日本である。戦後、韓国はナショナリズムが高じた末に、固有名詞以外では漢字をほとんど使わなくなり、書籍が全てハングル語で綴られている。日本語で言えば、すべてひらがなだけで書かれた文書である。ページ70
醍醐天皇は道真の怨霊を恐れて、彼の左遷を取り消して名誉を回復させるが、祟りが収まらなかった。…その後も、人々は不遇の死を遂げた人物の祟りを恐れ、彼らの怨霊を鎮めるために神社を作って、御霊を祀った。死者が祟るというこの考え方は日本人特有である。ページ76
この時、崇徳上皇はこんな歌を呼んでいる。「せをはやみ岩にせかかる滝川のわれても末にあはむとぞ思う」百人一首にも入っているこの歌には、2つに分かれた急流が、いつかは1つになって出会うこともあろうかというもので、やがてはことが1つになって欲しいと言う願いが含まれている。ページ83
保元の乱は、歴史的には、それまで脇役でしかなかった中央の武士団が中央の権力争いに顔出したということである。平氏と源氏の力は膨れ上がり、まもなく起こる平治の乱によって朝廷は力を失っていく。その意味で保元の乱こそ、大きなターニングポイントの1つだと言えるのだが、その元になったのは不倫だったというのが面白い。ページ85
かつては蒙古軍に大きな被害を与えたのは、台風とされてきたが、新暦の11月終わりは大型台風が来る季節ではなく、またその記録もなく、現代では「台風説」は否定されている。11月から12月にかけての玄界灘は荒れるため、元軍は帰還中に大きな時化に巻き込まれた可能性が高いと考えられる。この戦いは「文永の役」と呼ばれる。page 100
弘安の役」で蒙古軍を襲った台風は、のちに神風と呼ばれ、神風日本には神のご加護があるという一種の信仰のようなものが生まれた。しかし台風が来なかったとしても、蒙古軍が日本に勝てたかどうかは疑問であると私は考える。というもの、その前からも蒙古は日本軍に苦戦しており、九州上陸が困難だった上、日本には地の利があり、援軍
を送ることも可能だった。ページ104
新田義貞が幕府を倒すことができたのは、正成攻めのために千早城に送り込んだ大軍が半年近く釘づけにされ、鎌倉の防備が手薄になっていたからだった。その意味でも、鎌倉幕府滅亡の真の立役者は楠正成といえるだろう。ページ113
わずかな動きで世界を表現する能や狂言が発達したのもこの頃である。絵画の世界でも、この濃淡だけで自然を描く水墨画雪舟によって完成された。こうしたわびさびという微視から生まれたさまざまな文化や考え方は、その日本人の生活や文化に強い影響を与え、現代に生きる私たちの中にも維新思想となって根強く生きてるという。ページ128
遺伝子研究でも、現在の沖縄県民の遺伝子は中国人や台湾人ととても遠く、九州以北の本土住民に近いという結果が出ている。また琉球の古語や方言にも中国文化の影響は見られず、7世紀以前の日本語の面影が残っている。ページ132
ところで、秀吉が多指症であったという事実であり、これに関しては、他にも証言がある。私が興味深く思うのは、当時の人々からは奇異に見られていただろう、彼が指を切り落としていなかったということだ。私はそこに、名もなき足軽から、天下人にまでのし上がった秀吉という人物の、非常に強い自尊心と意地のようなものを見る。なお、差別につながるのを避けるためか、多くの歴史書に秀吉の多指症についての記述はない。ページ146
20世紀イギリスの偉大な経済学賞、常務メイナードケインズより約40年早く現代のマクロ経済政策を先取りした日本人、荻原重秀の功績がもっと語れてもいい。ページ185
なお世界でも人気の高い空手は、琉球で発達したものだ。韓国は「自国の伝統武芸」と主張するテコンドーは昭和に来日した朝鮮人が日本の松濤館流空手を真似て作った新しい格闘技である。ページ187
太田南畝は御家人で、勘定所勤めの官僚であったが、若い頃から狂歌の名人で、洒脱で諧謔に富んだ歌をいくつも読んでいる…南畝は当時としては長寿の74歳まで生きたが、道で転倒したことがもとで死んだ。辞世は「今までは 人のことだと 思うたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」という人を食ったものだった。ページ210
…ソウルにある「独立門」はこの時、清からの独立を記念して建てられたものだが、今日、多くの韓国人が、大東亜戦争が終わって日本から独立した記念に建てられたものと誤解している。こんな基本的な教育さえも行われていないことはにはあきれるばかりだ。ページ308
その日英同盟の影の立役者は義和団の乱で活躍した前述の芝五郎である。戊辰戦争で破れ、国と多くの家族を失った元会津藩士の男が、日本を救ったのである。柴はその激動の時代を生き延び、大東亜戦争で日本の敗戦を見届ける。生涯で2度にわたって国が破れるという辛い経験をした柴は、長年つけ続けていた日記を焼くなど身辺を整理し、9月15日に自決を図った。しかし老齢のために果たせず、3カ月後、その時の傷がもとで病死する。墓は会津若松市の柴家の菩提寺であった惠倫寺にある。ページ324
繰り返すが、韓国併合は武力を用いて行っれたものでもなければ、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行っれたものでもない。あくまで両政府の合意のもとでなされ、当時の国際社会が歓迎したことだったのである。もちろん、朝鮮人のなかには併合に反対するものもいたが、その事を以て併合が非合法だなどとは言えない。ページ327
ただ結果論ではあるが、100年以上後の現代まで大きく国内および国際問題となった状況をみれば、韓国併合は失敗だったと言わざる得ない。日本は大韓帝国に対し、あくまで保護国として自立させる道を選ぶべきだった。その場合、韓国の自立や近代化おそらく何十年も遅れたことだろうが、それが両国にとって最善の道だったと思う。ページ328
しかしながら財閥解体と農地改革はGHQでなければできなかった。例外もあったが、この大胆な改革があったために、戦後の日本は戦前と比較して極めて平等性と自由競争に富む社会となったといけなくもない。ページ439
ここで思い出してほしいのだが、この同じ年(1964年)に昭和天皇が日本の復興と無事を祈り、崇徳天皇の御霊を鎮めるために香川県坂出市に勅使を遣わして百年ぶりの式年祭を執り行わせている。ページ459