呆けたカントに理性はあるか

「呆けたカントに理性はあるか」を読みました。著者は東大名誉教授の現役医師です。デカルト、カントの哲学は理性と情動を分けて考えるが、最近の科学が明らかにしたのは、理性と情動は同一に近く、人間と他の動物は同じだそうです。認知症患者が判断力を失い、動物に近くなっても「好き」「嫌い」の情動は長く残ると指摘してます。現在、認知症患者から直接「胃ろう」の了解を得ないで、家族や医師の決定で実施しています。認知症患者をまるで家畜のように扱っています。認知症患者にも「好き」「嫌い」の情動があるから、かなり認知症が進んでいても「胃ろう」の判断は本人ができると主張しています。「呆け」は、私ごとです、他人ごとではありません。そうなったらどうしよう!と考えながら読みました。備忘します。

呆けたカントに「理性」はあるか (新潮新書)

呆けたカントに「理性」はあるか (新潮新書)

彼女の祖父は死を迎えるから食べなくなったのです。食べないから死ぬのではありません。この事実を彼女の母親は理解しており、彼女は理解できなかったのでした。ページ35
つまり自分の体、特に生死に影響するような、生存に直接関わる事柄について「好き」「嫌い」を表明する能力は、その人固有の能力で、最後まで保持されます。ページ54
「好き」「嫌い」の問題は、本書における最重要ポイントですから、もう一度まとめますと、生存に有益な環境刺激(情報)に向かう行動には「快」「好き」という内部感覚が生じ、有害な刺激から逃れようとする行為には「不快」「嫌い」という感覚が生じている。その内部感覚も、行動も、さらにそれを起こしている生理的変化も全て含めて「情動」というのです。ページ60
集団対集団、特に敵対関係にある集団同士では、自己の属する集団の立場を正当化し、相手手段は憎むべき当然罰せられるべき対象とみなすような心理教育がなされるのが特徴です。集団間で戦闘行為を行う場合に極端な形であれば現れます…。ページ65
デカルトやカントに代表される哲学の考え方は、人間には動物にない理性という能力が本来的にあり、物事を判断し、普遍的知識の獲得を可能にさせられるというものでした。そういう意味で彼の哲学を「アプリオリ哲学」と呼べましょう。これに対して、生物進化という何十億年に渡る生物進化の軸に沿って考えました。…いろいろな生物が示す環境からの刺激・情報に対する反応の意味も明らかになってきます。 大雑把に分けると、生物にとって「快」と感じる刺激情報は生存に役立つものであり、「不快」と感じるものは役立たないのでした。ページ82
現在、日本では数十万人の認知症高齢者に胃ろうが設置されていると思います。私たちの調査では認知症であっても、言語的意思疎通が可能な時期に胃ろうについて意向を聞いておけば、圧倒的な割合で胃ろうを拒否していた可能性が高いことを強く示唆します。人生の終末にある方達に、その意向を尊重した、苦痛のない、平穏な看取りを私たちは用意できるのです。ページ174