司馬遼太郎の対談録です。日本史の事実関係で知らないことはないと自負していましたが、最澄と円仁の関係について貴重な情報を得ました。「入唐求法巡礼行記」とのこと。ライシャワーという人の碩学に驚きました。備忘します。
この国のはじまりについて―司馬遼太郎対話選集〈1〉 (文春文庫)
- 作者: 司馬遼太郎,関川夏央
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2006/04
- メディア: 文庫
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…関東が父系社会であったということにも、同じような関連が考えられますね。西日本は多分に南方的な母系社会の匂いが強い。かつて西日本を中心として若衆宿や妻問の風習がありましたが、これは母系社会の民族ですね。ところが関東というのは、厳格な父系社会にの匂いがする。そしてそれは、どちらかというと、地理的には北アジアから関東に入ってくる太い何かを感じさせますね。ページ71
最澄よりもむしろ円仁によるところが大きいのではないかというふうに私は考えているんです。実際天台宗を組織して、ひとつの派として隆盛をもたらすことができた。平安仏教の中で、天台宗というのは一番重要な宗派の1つですけれども、それを可能にしたのは、やっぱり円仁だったのではないか。ページ178
徳川家の今日の日本に対する遺産として、非常に重要なものは以下の2つだろうと私は思っています。… 1つは島原の乱はありましたけれども、それ以降の200年というもの、幕末に至るまで、ほとんど完全と言ってもいいほど平和が保たれたということ、そのことが日本人に、ある種の秩序意識とでも言うべきもの与えたのではないかと思うんです。…今一つはその2百数十年間の間には、いろいろな階層、身分と申しますか、あるいは藩組織というものの各段階で、相当程度自治ということが行われた。自治の感覚というのは、私は非常に素晴らしかったと思うんです。いろんな制約条件はあるにせよ、藩が1つの自治組織であったことは間違いないと思います。ページ228
…徳川の日本というのは、いろいろ違った考え方というもの、あるいは哲学に対しても様々な流れ、あるいは考え方というものを認める余地があった。そして西欧の科学ですらが、究極的には認められていたという事だと思うんです。また経済の分野においては、いわゆる起業家魂というか、起業家精神というか、それがまず町人の間に芽生え、さらに農民にすら及んでいった。これまた目覚ましいことだと思うんですね。そういうような地盤があればこそ、いざ西欧の科学に触れて、近代化をやらなくちゃいけないというときに、日本の近代化の花が咲き、実を結んだということだと思います。ページ236
中公新書「オンドルの夜話」あれは面白い本です。…その中で一番面白かったのは「赤壁の賦」を朗謡していたら、遠縁の古老といった、つまり父に準ずる人が、どなって「やめろそういうものを読むなら論語や孟子を読め。そういうものはやくざものの文章だ」…と言って怒るくだりでした。ページ279
秀吉が朝鮮侵略をしましたときには、肥後名古屋城が本拠で、徳川家康がしょっちゅうおそばにいた。そこにはるか松前からお殿様がご機嫌伺いにやってきた。その時松前の殿様が錦の胴服を着ておりまして、その錦が普通で見る錦でなく、非常に精巧ないい感じだったので、「君はいい銅服を着ているね」と傍らの家康が言ったんですね。松前は家康にもおべっかしておかなきゃいけないので、「これは蝦夷錦というものでございます」と言って早速差し上げたわけです。ページ306
朝鮮の役に際して肥後名護屋に挨拶に来た松前氏に対して、秀吉は蝦夷地での交易圏を保護する。一方でアイヌを和人がいじめたりしないように、という条を書いた定書を与えている。ページ326