文化の多様性の認識へ

もう一度見たい名講義「文化の多様性の認識へ」を視聴しました。1987年、フランスの文化人類学者クロード・ レヴィス・トロースの講演です。文化人類学者だけでなく構造主義にも言及した面白い内容です。
石器は打製石器から磨製石器に進化したのではなく共存していました。このように進歩は直線的でも、必然でも、連続でもなく、飛躍的で偶然的であります。偶然が積み重なって最適組み合わせになったと考えられます。進歩しているか停滞しているかは見る人によって評価が変わります。老人と若者でも評価が変わります。政治的な立場によっても評価は変わります。西洋文化は科学に熱心で、エネルギー効率から社会文化を評価しがちです。しかし西洋がかならずしも進歩しているわけではありません。
多文化を見るときに自分は偏見をもっていることを意識しなければなりません。異文化に対して謙虚にならなければなりません。日本は鋳鉄、発行、文学、絵画、工芸で西洋文化より優れているようにみえます。19世紀にヨーロッパも日本文化を認めました。進歩とは元に戻ることも飛躍です。備忘します。
「分割相対論」は、進歩を否定しません。またある特定の面に限るという条件付きながら、諸文化を順序づける可能性も拒みません。しかし「文化相対論」はたとえ小さなものであっても、この可能性が含む3つの限界を指摘します。

 

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

 

 

第一に、人類の進化を見るとき、斜投影図的に見ると進歩は確かに存在しますが、進歩は特定の部分にしか現れません。しかも非連続的だし、同時に停滞や部分的交代もあり得ます。第二に、人類学者が工業化以前の社会を研究比較するとき、どの社会も同一尺度で図れるような基準は見出し得ません。最後に人類学者は特定の信仰体系や社会組織の形態の価値に関し、私的倫理的性質の判断を下す能力はありません。なぜなら人類学者は社会によって異なるという、前提に立つからです。人類学者が各民族文化の価値を比較しないのは、研究対象の民族を尊重するからです。それぞれの文化は本来多文化に対して正確な判断を下さないと考えます。文化は自分の枠から逃げられず、したがってその判断は相対的にならざるを得ず、そこから逃れるすべは無いのです。ほぼ1世紀から全ての社会が次々と西洋の優位を認めたと思います。全世界が借用していませんか西洋の技術生産生活様式を。これは歴史上前例がないことです。西洋型の文明が自己に疑問を始めたその時に、この半世紀に独立した民族が西洋追随を説いています。少なくともその指導者たちはそうです。…かつて地理的距離や言語文化が阻んでいた民族の融合が徐々に進んできた結果、数十万から200万年も続いてきたひとつの世界が、今終わろうとしています。多数の集団が分かれて暮らしていた世界、生物学的にも文化的にも別々の進化をたどった世界の終末です。工業文明の発展、交通手段と通信の高速化、これらによる大変革は集団の間の障壁を取り除きましたが、そのために失われたものもあります。それは新しい遺伝子の組み合わせや文化的実験の機会です。もちろん我々我々の夢は、平等というわいが多様性を損なわず、人類を支配する日のくることで、しかし幻想は禁物です。創造性が高い時代とは伝達手段が10分あって、離れた者同士が刺激し合いながらも、それが頻繁でも急激でもないため、個人や集団の間に障壁が存在しえて、画一化つまり多様性の消滅が容易に起こらなかった時代でした。進歩のためには人間が協力することが必要ですが、協力を有効かつ必要とする初期の多様性は、この協力の間に徐々に均一化されていきます。進歩はみんなでするゲームから生まれます。しかしそのゲームは遅かれ早かれ各自の持分を同質化してしまいます。多様性が初期条件でしたが、ゲームが長引くほど利益になる可能性は減少します。これが人類学者が見たジレンマです。現代の人類が抱えるジレンマです。人類は世界文明に向かっているようです。しかし世界文明という概念自体が矛盾ではないか。なぜなら文明の観念は、多様な多数の文化の共存が前提だからです。

 

平泉

ブラタモリ「平泉」を視聴しました。私は約50年前と40年前にに訪れました。修学旅行と仕事でしたが、ほぼ記憶はありません。猊鼻渓での記念写真があります
平泉は今から千年前に繁栄しました。藤原三代100年の繁栄です。坂上田村麻呂が東北征伐をはじめとして藤原清衡が国境だった平泉を中心都市としました。何故この場所かというと、この地には3億年前の地層が露出しており、金が多く産出していました。この財力を使い、北上川の水路もあり、北は蝦夷、西は中国との交易をしていたわけです。また水が豊富な地層構造で都市のインフラを作り易かったこともあります。中尊寺(金色堂)、毛越寺、無量光院は繁栄の象徴です。
タモリが3臆年前の地層を眺めて「人生なんか、どうでもいいよね」という発言が印象的でした。ちなみに、平地に泉が湧くので「平泉」という地名になったそうです。

致知2017年1月号

致知2017年1月号を閲覧しました。真面目な月刊誌です。ちょっと息が詰まる雑誌です。気になった記事は「日本の教育を取り戻す 切り札は出席停止」です。普通の教師にはできないだろうなあ。トランプさんやフィリピンの大統領ならやりそうですが、事なかれ主義の校長や教育委員会では無理でしょう。そして事態はさらに悪化していきます。加害者の人権や親の文句が怖くてなにもできず、被害者の人権はますます失われていく、悪循環です。

バカが多いのには理由がある

「バカが多いのには理由がある」を読みました。読んでると実に楽しい。日本人にうつ病が多いのは自己認識が正しいからだそうです、笑えました。ネットでのバッシングや学校でのいじめは生物のサガだと理解しました。NGOをなんとなく胡散臭く見ていましたが、やっぱり、そういうこともあるよねと得心しました。備忘します。

バカが多いのには理由がある

バカが多いのには理由がある

 

…すなわち「勘違いしていないひと」の典型はうつ病患者です。あらゆ出来事をネガティブにとらえてしまうのがうつ病だとされていましたが、最新の研究では、彼の自己認識は正確すぎてポジティブな勘違いができないのだと考えられるようになりました。「日本人はうつ病にかかりやすい」といわれますが、国際比較調査においても日本人の自己評価の低さは際立っています。ページ61
共産党右翼団体が瓜二つになっていくことにこそ、「リべラルの現在」が象徴されているのでしょう。ページ103
先進的な福祉国家では、社会に参画(貢献)する意思と能力を持った「市民」だけが手厚い保障を受けられます。理想の福祉社会は、強制労働社会でもあつたのです。ページ133
…こうした研究によれば、職業訓練は母子家庭の失業者には有効ですが、それ以外はほとんど役に立たず、とりわけ低学歴の若者と高齢者への教育投資はまったく効果がないという結果が出ています。ページ140
「ひとは経済的な損得に基づいて合理的に行動する」という経済学は、たんなる空理空論ではなく、この社会で起きていることを上手に説明できるのです。ページ150
それに対してなぜか日本では、若者たちの言葉遣いが「体育会化」する一方です。「よろしかつたでしょうか」などの現代口語と同様に、丁寧語や謙譲語が過剰になるのは人間関係でリスク。「ありがとうございます」といわれて、怒り出すひとはいません。それでも私は古い人間なので、「べつに礼をいわれるようなことはしてないよ」と思ってしまうのです。ページ168
道徳というのは正義をめぐる感情で、喜びや悲しみと同様に進化のなかでつくられてきました。私たちは集団の中から裏切り者を探し出し、バッシングするのが大好きです。この社会で起きる不愉快な出来事の多くは、多数派の大衆がこれを「正義」の名において行なうことが原因ですが、ヒトがヒトであるかぎり私たちはこのやっかいな性癖から逃れることはできないのでしよう。ページ171
ゴマの難民キャンプでポルマンは、NGOが行なう国際人道援助とは、紛争や虐殺などを「商材」にしてドナーから寄付を募り「よいことをして満足したい」という願望をかなえるビジネスだと気づきます。本のタイトルである「クライシス・キャラバン」とは、「悲惨な現場」を求めて世界じゅうを転々とするNGOのことです。ビジネスである以上、成功したNGOは大きな利益を上げることができます。紛争の現場にいる「人道援助コニユニティ」の白人たちは、破壊された町のレストランやバーで毎日のようにパーティを開き、10代の売春婦を膝の上に乗せています。彼らは自分たちが「特別」だと考え、その法外な特権を疑うことはありません(国連職員の特権意識はさらに肥大しています)。ページ226
死体には見向きもしなくなったすれつからしの報道カメラマンも、手足のない子どもたちが泣き叫び、地面を這いずり回る場面には殺到します。欧米のメデイアで大々的に報道されれぱ、NGO(クライシス・キャラバン)が大挙してやってきます。このようにして、ドナーの寄付金は子どもたちの四肢を切断した者たちの懐に落ちるのです。ページ231

 

リベラルがうさんくさいのには理由がある

「リベラルがうさんくさいのには理由がある」を読みました。最近、著者の橘玲さんに傾倒しています。リベラルは昔、輝いていました。選挙の時も保守自民党に大勝させないように投票していました。私が何故リベラルを嫌いになったのか、きっと年をとったからだと思っていました。そうではないことがいく分かりました。リベラルは自分の間違いを認めることができず、空中分解したことがよく分かりました。備忘します。

「リベラル」がうさんくさいのには理由がある

「リベラル」がうさんくさいのには理由がある

 

赤松元大尉や梅澤元少佐が自決を命令したという確実な証拠がない以上、「沖縄ノート」の執筆当時はともかく、現在の「人権水準」では、数百人もの一般人を死に追いやったとして彼ら個人を断罪することが許されないのは当然です。「沖縄「集団自決」裁判」は「日本の右傾化」の象徴でも、保守派・右翼による「歴史の否定」でもなく、自らの無謬性にこだわり、歴史を直視することを怠った「リべラル」の自業自得なのです。ページ73
いつ裏切られるかわからない相手とのつき合い方は、ゲーム理論でもっとも研究されてきたテーマです。…この競技を制したのは、全プログラムのなかでもっとも短い「しつぺ返し戦略」と名づけられた単純な規則だつたのです。しつべ返し戦略は、次のふたつの規則から成り立っています。
①最初は協力する
②それ以降は、相手が前の回にとった行動を選択する
しつぺ返し戦略では、とりあえずどんな相手でも最初は信頼します。これにこたえて相手が協力すれば信頼関係を続け、相手が裏切れば自分も裏切りまず。いちど裏切った相手が反省して協力を申し出ればふたたび相手を信頼して協力関係に戻るのです。ページ84
つくずく残念なのは、一人の詐話師によって慰安婦をめぐる議論が大きく歪められ、それを韓国のナショナリズム反日の道具として利用したことです。保守派のメデイアは92年には証言を虚偽と報じてしたのですから、朝日新聞がらっと早く記事を取り消していれば状況はずいぶん変わったでしよう。ページ96
戦争のほんとうの恐ろしきは、「無辜の民」が犠牲になること以上に、ごくふつうの市民が平然と。隣人ガを殺すようになることです。このグロテスクな「加害」のリアリズムから目をそらせ、「被害」の側からのみ歴史を語るなら、どの国であれ、悲劇をふたたび招きよせることになるでしよう。ページ106
野生のチンパンジーを観察した動物行動学者は、彼らが集団で弱い群れを襲うことを発見しました。チンパンジーの攻撃ではオスを皆殺しにしてその肉を食べ、メスの抱いていた赤ん坊を食い殺してから性交を行ないます。授乳中は生理が止まって妊娠でぎないからです。赤ん坊殺しは自らの遺伝子を後世に伝える、進化論的に合理的な行動です。…私たちは「自分の感情に正直であるべきだ」と思っています。しかし人種差別や性差別をいまだに克服できないように、進化論で生まれたプログラムの中には現代社会にとってきわめて不適切なものがあります。…「政治」のもっとも重要な役割は、ヒトの進化論的な歪みを矯正し、差別や暴力を抑制することです。それに比べれぱ景気がいいとか悪いとかはどうだっていい話ですが、残念なことにこの優光順位はしばしば逆転してしまうのです。ページ127
経済学者の研究によれば、男女格差の要因として「週的時間以上働いているか」を加えると、日本企業の行動をきわめてうまく説明できます。さらに女性が長時間労働した場合、昇進率が大きく伸びることもわかっています。日本の会社は性差別というよりも、労働時間によって管理職への登用を決めているのです。ページ145
麻薬を合法化すれば地下組織は壊滅し、刑務所に収監される犯罪者の数も激減し、高価な麻薬を入手するための衝動的な犯罪も減るでしょう。麻薬供給国の治安は劇的に改善し、アフガニスタンのクリパーンのようなテロ組織がケシを資金源にすることもできなくなります。麻薬依存症はアルコール依存症などと同じく、犯罪ではなく治療の必要な病気として扱われるぺきです。ページ195
日本では自殺の半数は首吊りで、電車に飛び込んだり、練炭自殺するひともあとを絶ちません。コーロヅパでは、「いつどのように死ぬかは自分で決める」というのが当たり前になってきています。同じ人生き生きてきたのに、なぜ日本ではむごたらしい死に方しかできないのか。それを考えるのが本当の「終活」だと思うのですが、残念なことに日本では、「死の自己決定権」というやっかいな問題から目を背け、相続や葬儀、戒名など、死んだあとの、どうでもいいことばかりが熱心に議論されているのです。ページ206
アメリカ社会における最大のタブーは、黒人の失業率が高かったり、貧困層が多いのは、「はたして人種差別が原因なのか」というものです。なぜなら同じエスニックグループでも、アジア系は会的・経済的に大きな成功を収めているからです。ページ218
井上氏は、リべラリズムは近代主義の思想で、その歴史的起源は「啓蒙」と「寛容」にあるといいます。「啓蒙」は、理性によって因習や迷信を打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動、、「寛容」は、宗教改革で始まったカトリックピューリタンの血なまぐさい戦争を終わらせるための共存の技術で、これを両輪としてりべラリズムは「正義の思想」を成熟させてきました。しかし、いまやリべラリズムは啓蒙を捨て、寛容だけを強調するようになったと井上氏は嘆きます。ページ232
この正義の基準(正義概念の規範的実質)は、「反転可能性」「だだ乗りの禁止」「二重基準の禁止」です。「反転可能性」は、、自分が受け入れないことを相手に課してはならないというルールです。相手に要求できるのは、自分と相手の立場を反転させて、それでも許容できることだけです。「ただ乗り(フリーライド)の禁止」は、コストを払わずに利益だけを得るのは不正だということです。「二重基準の禁止」は、ダブルスタンダードを使ったご都合主義を許さないことです。ページ234
だったら憲法9条をどうすればいいのでしょう。井上氏は端的に「削除すべきだ」といいます。なぜなら安全保障の問題は、一時の政権が憲法改正によって将来世代に永続的に押しつけるのではなく、通常の政策として、民主的プロセスのなかで議論されるべきだからです。ページ240
①労働者を「正規」と非正規」に分け、同じ仕事をしているのに異なる待遇に一のぼ身分産別以外のなにものでもありません。②子会社に出向した社員とプロパー社員で給与・待遇からかうという慣行も当たり前のように行なわれていますが、これも身分差別です。③サービス残業という習慣は日本以外にはありません。世界標準ではサーピス残業は「奴隷労慟」です。④定年は一定の年齢に達した社員を強制解雇する制度ですから、欧米では年齢差別と見なされるようになりました。新卒一括採用にいたっては日本の現行法でも違法で、厚労省か適用除外にしているだけです。⑤海外に子会社を持つ日本企業は本社採用と現地採用を異なる人事体系で管理していますが、これは国籍差別としてすでに問題視されています。⑥日本企業は形式的には男女平等になっていますが、現実には長時間労働(とサービス残業)によって会社に忠誠心を示さないと昇進できず、子育てをしている女性は管理職になれません。これが保守派が大好きな「日本的雇用」の本質で、「リべラル」な新聞社やテレビ局も同じうな「差別」を行なっています。…まずは自らの手で雇用差別を撤廃し、(世界基準で)リべラルな労働環境を実現してはどうでしよう。そのうえでりべラルの理念を主張するのなら、きっと多くのひとが耳を傾けるにちがいありません。ページ245

 

 

FACTA 2016年12月号

FACTA 2016年12月号を閲覧しました。興味のある記事は「大間違い日本の自動運転」「キリン一番搾りのインチキ産地情報」「地方潰す高すぎ固定資産税」「糸の切れた凧、化血研に吠える塩崎厚労相」でした。
自動運転には四段階あり、日本は最終段階の完全自動運転はもっと後のことだと人間が介在する第三段階を目標にしています。しかし世界の趨勢はいきなり完全自動運転です。トヨタは大丈夫か、心配になりました。キリンは新表示法に対応していないようです。化血研の記事は、たまたま昔の知り合いの木下さんの名前があり、感慨深く精読しました。備忘します。
化血研で厚労省との対決姿勢を主導する木下統晴理事は昨年まで駆けつけるの不正を調査する第三者委員会の委員を務め、化血研の隠蔽体質を厳しく糾弾した張本人、その御仁が堂々と「化血研はみなさんの思っているほど悪い会社ではない」と言うものだから、マスコミもどちらが悪者なのか見えていない。ページ34

トップポイント2016年12月号

トップポイント2016年12月号を読みました。取り上げられている書物は、以下の通り。
「第4次産業革命」「ライフシフト」「ジャックウェルチのreal-life MBA」「人事評価はもうやらない」「できる人が会社を滅ぼす」「オープンorganization」「ユダヤ式エッセンシャル学習法」「逆境力の秘密50」「フランス人は10着しか服を持たない」「帝王学
興味を持ったのは「ライフシフト」です。備忘します。

同じ会社でずっと働き65歳で定年を迎えるこうした従業員の常識は人が100年以上生きる時代には通用しない!少子化の進行に合わせて、人々の働き方、考え方をどう変えるべきか。世界で活躍するビジネス思想家たちが、100年時代の新しい生き方を提示する。長時間の戦闘歩む日本にとり、学ぶことを多い。