骸骨考

養老孟司さんの「骸骨考」を読みました。ヨーロッパで、たくさんの骸骨を見た話です。2016年に出版されたこの本は、比較的新しい作品です。副題に「イタリア、ポルトガル、フランスを歩く」とあるように、ヨーロッパ各地を巡る骸骨見学を中心とした紀行文です。 著者の養老さんは、まるで子供のように虫捕りが大好きな人物。その素朴な視点で物事を捉えるスタイルは、一般的な評論家とは一線を画しています。断言しないし、人は状況に流される事をよくわかってます。 旅の途中で彼の哲学的な考え方が随所に織り交ぜられているのも魅力の一つ。脳科学者としての視点で、人間を物理的、数学的に捉える彼の思考は、一般的な観点とは異なる洞察を提供してくれます。「そういう考え方もあるな」と思わせる面白さがあります。 宗教における欺瞞の問題、日本人の言語表現に対するスタンス、そして死に対する現代日本の態度など、多岐にわたるテーマが語られています。 読後は、日常を見る目が少し変わるかもしれません。備忘します。

厳密には、ここはちょっと面倒である。つまり情報には送り手と受け手があるという常識がある。その時にやりとりされるもの、つまり言葉なら音声とか文字、それが情報の媒体だが、変わらないのはその媒体の中身である。インクで書いたら、いずれ文字が消えてしまう。でもそこに書かれた内容は、適当に媒体を保存すれば、いつも同じままで残る。デジタル化の実態はそのことである。媒体は実態で、実態は諸行無常だからいずれ消え去る運命にある。だから媒体は、とっかえひっかえしなければならないのだが、でも中身は同じまま残る事は認めいただけるだろう。私はそれを情報と呼んでいるこの中身は意識と記憶の中にしかない。ページ21 身体の扱いにくさは変化することにある。…最も根本的には情報化しないのである。言い換えれば…完成しない。完成するのは、意識的なものだけである。ページ22
宗教における不況の問題を端的に言うなら、「人をどう騙すか」である。騙すという言葉が本当ではない、と感じる人もあろう。しかし、騙す事は文化の基本と関わっている。無論ここでいう騙すは広義であって、振り込め詐欺のような具体的なものだけを考えているのではない。1番広く言うなら、騙す事は情報の発信者と需要者との関係、その具体的な利用を包含される。論理的にはその間に様々な問題が発生する。そういう目で見れば、振り込め詐欺はわかりやすい事例に過ぎない。ページ42
日本人がこういういわ馬鹿げた議論をしないのは、言語表現にそれほどこだわらないからであろう。「初めに言葉ありき」の世界とはずいぶん違う。言葉は素直に発せられ、素直に受け取られれば良い。なぜその方が良いのかと言うと、社会全体としては効率が良いからである。いちいち他人の言うことを疑っていたら、面倒で仕方がない。ページ48 現代の日本では、死に関する態度が混迷してるように見える。70年前までは、そこには少なくとも暗黙の了解があった。人生は自分のためではなかったのである。だから神風特別攻撃隊だった。戦後はむしろそれが逆転した。自己実現、本当の自分、個性を追求するようになった。その典型はアメリカの文化であろう。そのアメリカの脳科学は何を見つけたか。人の脳のデフォルト設定は社会脳なのである。つまり1人でものを考えたり、集中して作業するときの設定ではなく、誰か他人の相手をするときに働く部分が初めから活性化している。ページ112
欧米の文化では自由とは運動系に関わる。何をするか、つまりする自由が意識されている。東洋ではそれはむしろ感覚に関わる。感じる自由ではないか。ページ136 宇宙船は人工物だが、そこから見える世界は自然物である。それにそれを見た途端に、思想が根底から変わってしまう。見ただけでも自分が変わるのだから、見ることを馬鹿にできない。見ることなんて、ひたすら受け身だ、ということにはならないのである。でもテレビの画面を見ていたのでは、意識の中から出られない。テレビは誰かの意識が作っているからである。ページ145