後鳥羽上皇

1221年後鳥羽上皇は、畿内・西国の武士や大寺院の僧兵、さらに北条氏の勢力増大に反発する東国武士の一部をも味方に引き入れて、ついに北条義時追討の兵をあげた。しかし上皇側の期待に反して、東国武士の大多数は北条氏のもとに結集して戦いにのぞんだ。…1ヶ月ののち、戦いは幕府の圧倒的な勝利に終わり、3上皇を配流した。これが承久の乱である。(山川出版 高校教科書 日本史 2007年版 より)

昨晩「新古今和歌集」の解説本を読んでいたところ、藤原俊成藤原定家、父子に興味を持ちました。定家については「紅旗征戎わが事にあらず」との言葉を高校時代に教わり、そのノンポリぶりに呆れていました。今思えば、ガキの感想です。俊成は1203年、90歳を迎え「後鳥羽院より賀宴を賜る」との記述から、遠流のいきさつについて調べました。

定家は百人一首の最後の2つに、後鳥羽上皇順徳上皇父子の歌を入れています。


人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思うゆゑに物思う身は

ももしきや古き軒端のしのぶにも なおあまりある昔なりけり

これは「田辺聖子百人一首」で意味を確認しましたが、流されてからの歌ではないそうです。また百人一首の最初の2首が天智天皇持統天皇父子の歌で、前後呼応しているそうです。ダビンチコードばりの暗号が百人一首ならびに百人秀歌に隠されているのかも知れません。それにしても後鳥羽院は豪放磊落、博打、女、造営、贅沢三昧にして、芸術家としても一流、スポーツ万能の天才的な人物だということがわかりました。

もうひとつ。私の好きな北条政子65歳の有名な演説が承久の乱のときの演説であったことを知り、知識不足を大いに恥じ、かつ得心いたしました。


名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえれば、群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺みて返報を申すに委しからず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ。