中学歴史

「中学歴史」を読みました。平成30年度、文部科学省「検定不合格」教科書です。皇族の竹田恒泰氏の編纂です。でも普通の教科書でした。もっと右翼っぽい内容を期待していたので、なぜ不合格なのかよくわかりませんでした。記述に濃淡があり、説明がたどたどしい風はありますが…。平泉澄氏「物語日本史」の方がよっぽど右翼的で読み応えがありました。元左翼、今右翼としては、がっかりです。世界最古の磨製石器出土から「日本文明」とは、笑えました。備忘します。

今に伝わる人類最初の道具は磨製石器であり、今のところ世界最古の磨製石器が日本列島で出土しているという事は、その時代の人類の技術の最先端は日本列島にあったことを意味します。もし、人は最初から人だったという見地に立つなら、その最初の人は日本列島で生じた可能性もあるのです。ページ37
日本列島では本格的な食糧生産と都市形成の時期が遅れましたが、日本列島から最古の磨製石器と最古の土器が発見されているのですから、日本は独自の文明の起源を持っていたことになります。これを「日本文明」といいます。ページ43
称徳天皇は翌年、白壁王を皇位継承者に指名して崩御となりました。白壁王は令旨を下して道鏡を追放すると、62歳と言う高齢で天皇に即位しました。第49第、光仁天皇です。光仁天皇天智天皇の孫でありながら、、天武系の聖武天皇の娘である井上内親王を妻としていました。光仁天皇の即位は、天武系から、天智に系統が移ったにもかかわらず、先祖を同じくする2つの系統の家が1つに融合したことを意味します。天智系には皇位継承可能な皇族男子がいなくなっていたため、綱渡り的とは言え、見事な皇位継承を成し遂げたといえます。ページ85
没後、最澄は第56代、清和天皇から伝教大師、また空海は、第60代醍醐天皇から弘法大師の名が贈られました。ページ88
多くの武士が北条氏率いる幕府に結集し、朝廷軍と対峙しました。幕府軍の総大将である北条泰時が鎌倉に一度引き返し上皇自らが兵を率いた場合の対処を北条義時に尋ねると、「天皇に弓は引けぬ、直ちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と教えられたことが「増鏡」に書き残されています。結局、上皇は戦場に現れなかったため、泰時は思いのままに戦い勝利を収めました。京都は幕府に占領され後鳥羽上皇はこ隠岐に流されました。これが承久の乱です。ページ99
伊勢の神宮の20年に1度の式年遷宮が、応仁の乱以降途絶え、外宮の遷宮は復興したものの、未だ内宮の遷宮が復興できないでいました。信長が寄進したことで、内宮の遷宮が120年ぶりに復興されたのです。ページ120
犬公方とも揶揄された五代将軍、徳川綱吉が定めた生類憐の令は、世紀の悪法と言う印象持って語られてきました。しかし、近年の研究においてそれは見直されつつあります。生類憐の令によって、死刑や流刑などを処罰にあったものは数えるほど人数しか確認されていません。もっともこの法律の趣旨は、動物の虐待や殺傷の禁止と言う所にはありませんでした。江戸時代初期は、長らく続いた戦乱の時代が終焉してから、まだ間もない時期であり、人々の倫理の低さが問題となっていました。殺人や強盗、捨て子や虐待などが横行していたのです。朱子学儒学に明るく聡明であった綱吉は、そうした現状を是正するため、生類憐の令を定めたのです。ページ127
昭和15年は日本にとって特別な年でした。日本書紀によると、初代神武天皇即位から2600年にあたる年だったからです。紀元2600年を祝うために、国を挙げた祝賀行事が行われました。1万機以上生産された戦闘機の零戦は正式名称零式艦上戦闘機といいます。これは0 0年に作られた戦闘機と言うことで零式と命名されました。ページ180
アメリカには対日戦争を終わらせるために三つの選択肢がありました。一つは、本土決戦を実行して日本を軍事制圧することです。しかしこれは犠牲が大きいので優先されませんでした。あと2つが、天皇の地位を保障することと、ソ連が参戦することでした。いずれかによって日本は直ちに降伏するものと考えられていました。スターリンの参戦を約束した今となってはソ連の参戦をただ待てば、自動的に日本は降伏するはずです。それにもかかわらずトルーマン大統領は原子爆弾の使用にこだわりました。ページ192
7月26日、ついに日本に対する後韓国であるポツダム宣言が発せられました。当初、合衆国政府には、天皇の地位を保障する文言が入っていましたが、調印直前になって、その一文は削除されました。…トルーマン大統領は7月25日付の日記に「日本に対して、降伏してこれ以上死者を出さないよう警告を出そう。日本が受託しないことはわかっているが、チャンスを与えてやろう」と書いてます。大統領は、天皇の地位を保障する一文を削除したため、日本は受諾しないだろうとわかっていました。むしろ日本が受諾できない文面を作成したとみられます。日本がポツダム宣言を直ちに受託してしまったら、原子爆弾を投下することができなくなります。原子爆弾を投下するためには、ポツダム宣言は日本によっていちど拒絶される必要があったのです。ポツダム宣言が発せられてから二日後の7月28日、鈴木首相は、ポツダム宣言について「重視する要なきものと思う」と述べたところ「政府は黙殺」と言う記事が朝日新聞に掲載され、世界のメディアは日本はポツダム宣言を拒絶したと間違って伝えました。これで米国に原子爆弾を投下する口実をえました。ページ194
平成22年尖閣列島付近で違法操業していた中国漁船を、日本の海上保安庁が取り締まったときに、中国漁船が海上保安庁の船に意図的に体当たりする事件が発生しました。…それ以降、中国が尖閣列島周辺に公船をかつてない頻度で派遣するようになりました。日本の実効支配を崩す目的だと思われます。尖閣列島は、明治18年に日本政府が沖縄県を通して現地調査を実施し、無人島であることと、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを確認して、明治28年閣議決定により日本の領土に編入されました。ページ220