老いと死のフォークロア

学芸大学駅のいつもの古本屋で、この本に呼び止められました。目次も見ないで購入しました。「老いと死」がこれからの私の最大のテーマです。逃げていましたが、捕まりました。考えます。また古事記の新解釈を読んで、納得したころ多々ありました。備忘します。

…「老人社会の問題」の本質を、福祉政策でも医療対策でもなく、新しい生命観に見ている点は全く同感である。私の「童翁論」もまた新しい生命観,いや極めて古い生命観の再提起に他ならないだろう。そうした生命観の再革命こそが、老いの問題に新たな光を投げかけるに違いない。ページ29
…老いは、美しいものでも醜いものでもない。老いは、そのままただ老いである。生命の変化のプロセスなのだ。ただ老いという生命の形があるということだけなのである。ただ、老いが様々な執着を抱え込むとき、その老いは臭気を放つようになる。…だがこうした濁りや汚れもまたそれぞれの老いの形ではないか。老いの肖像には決まった定型などないのだ。ただし、ある程度の決まった身体諸機能の変化は避けられない。しかしそれもいずれは、医学と生命工学の発達によってかなりの程度克服されるであろう。もはや私たちには老いの類型を生きることはできない。 ページ36
…ピラトは、「この人を見よ」と叫ぶのであった。「私は真理についてあかしをするために生まれ、また、そのためにこの世にきた」というイエスの言葉にどれほどにニーチェの魂が深く囚われたか、想像するに余りある。…まさにニーチェがその全著作を通して声を大にして言わんとしていることは、私は真理についてあかしをするために生まれ、またそのためにこの世にきたのである。だれでも真理に着くものは、私の声に耳を傾けるという一環した主張であり、そのあまりの自明さという同時にその不可能性についての予感だったからである。ページ184
…この「意識的に死ぬ道」が、プラトンの言う「死の予行演習」としての哲学の道であることはもはや繰り返すまでも無いことだろう。興味深いのは、このようなしの準備が繰り返し昔話の中で語られてるということだ。…死という智者に出会ったときどういう挨拶を交わすか、私たちはとくと考えておく必要があるのかもしれない。下手な考えが尽きるところまでは。死の彼方への旅とは一体なんなのか。死体と死者の意識の変容するさまに驚愕せざるをいられない。ページ255
死を知らずして、生を識ることはない。生を知ることは、死を識る道に他ならないから。だがしかし、一体、どうすれば死にではなく、死との添寝から目覚めて、運命に殉じることができるのだろうか。死の予行練習ではなく、死の実習として。いや生の再履修として。ページ277
悪しき味方よりも果敢なる敵の死はいっそう悲しい。文学者、三島由紀夫はおそらく私の最大の敵だったろう。いま氏の自衛隊総監室乱入とその自害を聞いた、表現は政治的な形にもせよ、私は1人の優れた文学者が、その仮面の奥の秘めた一切の悲劇を見せて自殺したのだと感じている。もし三島由紀夫氏の霊にして耳あるなら、聞け。<高橋和巳が、シオカラを覆し哭いている>その声を。ページ295
(風の谷ナウシカを見て)モノガタリが霊語であり、物語であり、者騙であることの恐れと喜びと不思議を呼び戻してくれた、これらの物語映画に、私はどれほど感謝してもしすぎることはないと思っている。…これらの物語が響かせているエーテルの波動に溶け込み、力づけられていることのほうがどれほど大事か計り知れない。ページ516