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騎馬民族国家

日本民族と日本国家の成立を混同していました。日本民族は弥生式時代に成立しており、その民族の上に、大陸系騎馬民族の征服が行われ、征服王朝による建国がなされたことを諒解しました。天孫族天皇家)の統治が北方騎馬民族の統治に驚くほど酷似していることを、はじめて知りました。縄文時代から弥生式時代への進展は南方からの稲作が伝播したことによる革命でありました。白村江の戦いをはじめ、日本が、どうして百済任那)を助けなければいけなかったのかが、よくわかりました。なぜなら辰王家(南部朝鮮)と天孫族が同系統だったから。備忘します。

騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ (中公新書)

騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ (中公新書)

内陸ユーラシアの「騎馬民族国家」は、農耕地帯の民族国家…と異なり、軍事的な利益追求を共通な目的としてもち、しかも不断に流動する人間たちによって、人為的に構成されたものである。…このような優勢な騎馬民族国家にねらわれた、農耕地帯の都市や農耕の人々は、不断の脅威にさらされたのである。ページ19
匈奴の遊牧騎馬民族国家は。ほとんど冒頓一代のあいだに興隆したので、東は熱河から西は東トルキスタンへ、北はバイカル湖辺、…南は長城地帯…すべての民族を支配下におさめた。…匈奴の勃興期であると同時に最盛期でもあった。ページ44
…(120年)満州西部の鮮卑にキシケンという者が出て、騎兵数万を有して、漢および南匈奴の連合軍に拮抗する形勢を示し、…(147〜167年)に鮮卑の大同団結がほぼ実現した。ページ111
…ようやく大同団結にむかった烏丸の存在に危険を感じて、その徹底的掃滅を期したのが魏の曹操で、彼は206年に親征してトウトンを倒し、烏丸の主力を滅ぼした。ページ113
…弥生式時代ないし古墳時代前期と古墳時代後期とでは、現世の生活様式に著しい差異があったばかりでなく、私語の世界について…根本的な相違があった。…平和的な、東南アジア的な、いわば農耕民族的な特徴がひじょうに希薄になって、現実的な、戦闘的な、王侯貴族的な、北方アジア的な、いわば騎馬民族的な性格がいちじるしくなった。ページ155
…南部挑戦方面から外来民族が渡来したころは日向国などの、九州の僻遠の知ではなく、弥生式時代から南部挑戦とたがいに密接な関係にあった、北九州、筑紫にほかならない…ページ166
任那こそ日本の出発点であったので、そこを根拠とし崇神天皇を主役とした天神(外来民族)が北九州に進撃し。ここを占領したのが、いわゆる天孫降臨の第一回の日本建国で…ページ172
…天神なる外来民族による国神なる原住民族の征服−日本国家の実現が、だいたい二段の過程で行われ、第一段は任那方面から北九州への侵入、第二段は北九州から畿内への進出で、前者は崇神天皇を代表とした天孫族と、たぶん大伴・中臣らの天孫系諸氏の連合により、四世紀前半におこなわれ、後者は応神天皇を中心とした、やはり大伴・久米らの天神系諸氏連合により、四世紀末から五世紀初めのあいだに実行された…ページ175
天皇は天孫の血統の者に限るという大原則があったことが明瞭であろう。…大陸騎馬民族国家における君主位継承制のばあいにもまったく等しい。ページ228
…応神・仁徳・履中の三代…の陵墓が、他にずば抜けて巨大なことは、大和の豪族勢力に対する威圧政策が、その間継続していたことを示唆している…ページ255
…日本国家の成立と日本民族の形成をはっきり区別しており、後者を弥生式時代すでに成立していて、その民族の上に、…大陸系騎馬民族の征服が行われ、征服王朝による建国がなされた…ページ304
…弥生式時代の水稲農業の原郷が中・南シナ方面にあったであろうという説は、ますます確実…ページ313
魏志倭人伝によれば、当時の中国人は、倭地をもって南に延長された島国で…当時の中国人の眼に映じた倭地の環境風俗が、大陸の北方…とは相違して、南方ことに揚子江の中・南シナ方面と酷似していたことから起こった錯覚と解すれば、すこぶる自然に諒解されるのである。ページ321