柳田國男を歩く

柳田國男を歩く」を読みました。柳田國男は、「遠野物語」で有名な民俗学者です。明治31年の九州出張視察が、民族学研究の萌芽であったと論じています。明治政府の高級官僚として草鞋で歩きながら現地を調査しています。その視察の道筋を丹念に追う構成です。よく調べたものだと感心しました。国家の歴史は残っても、民族の記憶は忘れ去られてしまいます。当時の熊本周辺には原日本の習俗、文化がまだ色濃く残っていました。昭和のはじめまで棚田はなかったことや、つい最近まで焼畑農業が山間部の主たる農業で、ヒエが主産物だとは知りませんでした。国民歌謡「椰子の実」の成立エピソード、焼畑農業が環境破壊ではないことも知りました。この本は熊本県人吉生まれの友人に進呈するつもりです。備忘します。

名も知らぬ/遠き島より/流れ寄る/椰子の実一つ
島崎藤村の有名な詩である。昭和11年NHKの国民歌謡として曲がつけられ、それぞれの感懐を持って多くの人が口ずさんできた。その詩が生まれたエピソードはよく知られている。明治31年夏、柳田国男は愛知県伊良湖岬恋路ヶ浜を歩いていた。そこで「遥かな波路を越えて」南の島から浜に、まだ新しい椰子の実が流れ寄っているのを見て柳田は驚く。この事を東京に帰り藤村に語ると、藤村は想を得て新体詩「椰子の実」を作った。ページ68
これらの状況を総合すれば、柳田は鄙の話題、椎葉と焼畑について物珍しかった若い高級官僚で、柳田に接した人たちは、したり顔でそれらを教示したという観であったろう。そのような雰囲気を作り出す官僚旅人柳田を、私は「韜晦の人」と密かに名付けた。韜晦の人は聞き上手だ。ページ100
柳沢は、「椎葉村ユートピア論」で椎葉の土地利用には理解を示すが、しかし焼畑農業については大いに批判的な発言をしている。ページ121
いよいよ別れを告げなければならない。草履を履き歩き山人たちの度肝を抜いた明治の高級官僚にして「近世の面影をたどる旅人」は、体感した汗とそれに応えてくれた山人達との7日間の暮らしで、確かな日本民俗学の萌芽を感知したに違いない。ページ132
…このように、豊葦原のみずほの国、天孫降臨の伝説地でさえ棚田になるのは昭和初期からであった。そのように、日本の山地では、焼畑が続けられてきたのだ。ページ139
…’(焼畑農業が)最も良い土地利用だとは思えないだろうか。皆さんはイエスと答えるだろう。それは大変良いことなのだが、しかし、どうやって原始的な少数民族が見つけ出した答えを巨大な国の我々が使えるように変形すれば良いのだろうかと、焼畑農業に未来を託すように示唆し、私たちは森林を利用し、なおかつ保護すると言う伝統的生活をしている森の人々が、文明化された私たちがしているよりもはるかに文化的なことをしているのに気がつくはずである。ページ155
以上の2人が語られる焼畑の主作物がヒエである事はいうまでもないだろう。ソバは出てこない。ページ200
私たちが忘れてしまったような古い文化習慣をまだ残していた山里では、つい最近まで、正月は、特に元旦と3日は少しもめでたくはなかったのであった。ページ214