到知 2018年6月号

「到知 2018年6月号」を読みました。特集は「父と子」です。今月号の中で詳しく読んだのは「父が照らした光」という記事でした。森信三先生のご子息森迪彦さんが、父森信三先生を語っております。これまで出自のことは知りませんでした、「人生にどなし」「実践、実践」の彼は苦労人でした。 備忘します。
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私の父心臓は明治29年(1896年)愛知県知多郡に3人兄弟の末っ子として生まれました。信三の祖父は第一回国会議員や愛知県会議員に選出された地元の名士だったものの、心は仕事を勉強もしない遊び人で、家を傾かせてしまい、奥さんにも逃げられてしまったんです。 両親の離縁により、信三が生まれた翌年、縁もゆかりもない小作農の森家に養子に出されました。これが人生第一の試練です。ただ救いだったのは、養父母は非常に律儀で実直勤勉な人で、近所の人達から」実の子でもあんなに大事なできない」と言われるほど、可愛がったと言います。その中で勉学に励み、尋常小学校を首席で卒業するんですね。 が、家が貧しかったため、希望していてた中学進学を断念するせざるを得ず、師範学校へ入学するのも年齢が足りない。それで母校の給仕をしながら勉強に勤しみ、1年間過ごしました。 第二の試練ですね。このとき人生の厳しさと挫折感を味わったのだと思います。19歳の時に名古屋第一師範を首席で卒業すると、1年半ほど小学校に勤務しますが向学心を駆り立てられたのでしょう。教育者を目指すなら、人間いかにいくべきかという人間学を勉強しないといけない。そう思い立ち広島高等師範、京都大学哲学科で学び、さらに大学院に5年間通い、首席で卒業しました。しかし広島、京都で採用されませんでした。 この時、天地の間にただ一人いずとの考えにむせび泣いたと言います。京都の地を離れ、学生時代にアルバイトしていた天王寺師範の専任教師として迎えられたのは昭和6年、34歳の時でした。さきほど申し上げた「修身教授録」の話つながっていくんです。 当時の教育界の第一人者と言われた芦田弥之助先生が信三の講義録をご覧になり、これはすごいと、いたく感動されました。息子さんが経営している同志同行社で…そこで前5巻にまとめて発刊していただいたんです。… 芦田先生が模範授業し、信三が人間学の講義をするという形で全国行脚していく中で、信三の教育界に知れ渡るようになりました。…また父は数々の逆境乗り越える中で人間としての力量を磨き高めていきました。「逆境は神の恩寵的試練なり」という言葉は、父の体験を通じて生まれたものです。ページ10