南方熊楠

南方熊楠」を読みました。新潮文学アルバムの一冊で写真満載の本です。学芸大学の古本屋で見つけました。南方熊楠は、希有の記憶力と底知れない構想力を持つ天才です。明治の時代に徒手空拳で米国、英国に渡り、粘菌を研究して世界で認められる学者になりました。貧困であえぎながらも帰国後、自然保護活動の先駆者として熊野の自然を守り、昭和天皇にご進講までした偉人です。ロンドンで知り合った孫文とは親しい友人で日本で再会しています。柳田国男など、他の交友関係をみるに、天才は天才を呼ぶということがよくわかりました。備忘します。

明治17年夏、大学強美門の試験に合格。この学校での同窓には、のちの東大教授で国文学の芳賀矢一、小説家の夏目漱石、山田美沙、俳人正岡子規、ロシアのバルチック艦隊撃滅の青写真をかいた海軍中将、秋山真之などがいた。ページ13
愉快なことに熊楠は、持ち前の超人的な記憶力を旅暮らしの中で発揮し、行く先々の国の言葉を瞬く間に覚えてしまった。そして熊楠は、曲馬団の女芸人たちに届けられる様々な言葉のラブレターを読んでやり、彼女たちのために返信用の恋文まで書いてやった。ページ27
そんなある日、熊楠は街で1人の日本人に会う。足芸人の美津田滝二郎である。人間の縁などというものはわからないものだ。曲馬団での話が弾んで、食事に招かれた美津田の家で熊楠は、片岡プリンスをし、その片岡の紹介で大英博物館古物学部長で富豪のサー・オーラストン・フランクスの知遇を得た熊楠は、大英博物館での資料閲覧を許されている。ページ31
卑屈極まりない在英日本人の多い中で貧書生熊楠は大英帝国の権威を相手に臆するところもなく、学問のために堂々と抗議したのである。その勇気にディキンスは強い感銘を受けた。<ミナカタは、世が見る日本人の中で最も博学にして剛直無偏の人>そう熊楠をたたえたディケンズは、我が身の非礼を詫び親交を結んだ。そしてその友情は生涯変わる事はなかった。ページ39
熊楠と孫文は、互いに話をはずませました。学問と政治と、生きる道は違っても、共に国を愛し「新しい東洋」への熱い思いを抱いている2人だからであろうか、ダグラスが呆れるほど2人の話が尽きることがなかった。意気投合した熊楠と孫文は、こののちも、ほとんど毎日のように互いの宿を訪ねあい、食事を共にし、わずかな時間も惜しむかのように語り続けている。熊楠31歳、孫文は1つ年上の32であった。ページ44
和歌山駅等での別れに、孫文は台湾からの白いヘルメットを脱いで熊楠に被らせた。「孫文、革命の成功を…」熊楠は孫文の手を握った。柔らかな、暖かな手であった。この握手が、孫文との最後の別れになった。ページ52
昭和4年6月1日、この日の熊楠は、天皇旗をgひるがえして田辺湾に入港した御召艦、長門の一室で、…ロンドン時代の古フロックコートを着て直立し、新聞紙に包んだ粘菌類の標本、キャラメルの大きな箱に入れた標本を献上して、天皇を微笑させている。ページ74
河東碧梧桐の「木蓮が蘇鉄の側に咲くところ」明治44年3月12日来訪、その近さ、そして碧梧桐の驚き、その親しみもまた近くに感じられて… ページ99
記憶の天才そして幻視者としての底知れない力を、別にすると「雑り(まじわり)}、そして微妙な音楽的宇宙的要素を感じさせる「混雑」が、南方熊楠のキーワードなのだと私は思う。ページ100