足利義満

足利義満」を読みました。 室町時代は派手な戦争もなく面白みに欠ける時代という印象ですが、日野富子にしろ、本書の義満にしろ、政治的で、耽美的で、興味をそそられる時代だと思うようになりました。特に天皇になろうとした将軍「義満」とはどんな人物か?知りたくて一読してみました。大内義弘の繁栄と没落は実に興味深く、軍記「応永記」にある、参謀「平井備前入道」は小説の主人公になれると思います。備忘します。

足利義満 - 公武に君臨した室町将軍 (中公新書)

足利義満 - 公武に君臨した室町将軍 (中公新書)

北条高時足利尊氏のように、それまでの武家の権力者は田楽を愛好していたが、義光は若くして猿楽に開眼していた。…義満は大和猿楽の一座を率いる観阿弥の芸に触れ、世阿弥を寵愛するようになった。新熊野猿楽は、単に義満と世阿弥のみならず、武家と猿楽を結びつけた記念すき出来事であったが…(p.39)
義満に随行して義弘も上洛し、そのまま幕府に出仕した。明徳の乱には義弘も武将として参戦し、内野合戦で山梨氏起用を打ちとる功績を立てた。その賞として山名氏の本国である紀伊・和泉の守護となった。水陸交通によって発展した大内氏が都市堺を抑えた意味は大きく、義光・義将らを堺に迎えて盛大な犬追物を挙行している。(p.181)
さてその応永記を通読する時、「平井備前入道」なる家臣の活躍に誰しも気づくであろう。…平井は最初から義弘の企てを危惧しており、…絶海の説得こそ帰順する絶好のチャンスではないかと言語をつつくして諫言を呈する。…実は家名断絶なることを避けるために、あえて献策したというのである。このように戦後処理をすでに見通している以上、平井の行動は、いかなる修羅場においても、まことに冷静明晰である。落城に際し、義弘の戦死を聞いて、切腹しようとする七郎新介こと義弘末弟の弘茂の手を押しとどめ、…説き伏せて降参を選択させる。(p.187)
「窺観」「簒奪」といった刺激的な言葉は客観的な考察を妨げる。では義満の数々の「僭上」の振る舞いがあり、あるいは現実に太上大臣の尊号宣下があったにしても、そうした野望を云々することの誤りは既に明らかにされている。天皇は子であっても君主、上皇は父であっても臣下である。太上天皇の尊号とは天皇が臣下に贈る身位であり、義満がたとえいかなる破格の待遇を受けようとそれは後小松天皇との関係に基づく。義満は後円融とは対立したが、天皇を頂点とする体制を損ずる事は一切していない。したがって「義満の上皇待遇」と「義嗣の即位」とは全く次元の違う事柄で、…(p.208)
…明の皇帝から「日本国王」と呼びかけられ、「冊封」を受けたことで義満の政治的地位に何らかの影響があったかと問われれば、否と言わざるを得ない。国内向けに日本国王を称した事はなく、廷臣も大名も「日本国王」として意識したこともない。…通商を認めさせるための、いわば詐称であると割り切っていて…(p.227)