人みな骨になるならば

「人みな骨になるならば」を読みました。著者は精神科の医師です。「人は死ねば骨になる」これは身も蓋もない言い方ですが真実です。さらに言えば、人間は宇宙のゴミで、生きる意味はない、だからこそ意味のないことを認めて生きていこうと著者は言っています。生きることとは「暇つぶし」に近いと主張しています。「老いてますます盛ん」は世間のリップサービスです。人は必ず老いて、死んで骨になります。病や寿命は「運」で、健康法はただの念仏だと。笑ってしまいました。寿命が延びたので、昔の人よりさらに「暇つぶし」が必要です。無駄なことをどれだけ真剣に取り組めるかが私の晩年だと了解しました。死は考えても無駄だと腑に落ちました。備忘します。

人みな骨になるならば―虚無から始める人生論

人みな骨になるならば―虚無から始める人生論

われわれは生きているというだけで既に、宝くじを三回買って三回とも当たった位ラッキーな人物なのである。自分のことを特別な存在だと感じても不思議ではない。ページ42
問題は、われわれが過去現在未来を通じて自分たちの生に意味や価値があるかどうかを、客観的もしくは論理的に確認できないことにある。ページ52
私が生きようが死のうがたいしたことではない、といった現実は私にとって不愉快な現実である。多分宇宙から見れば、一匹のゴキブリや一本の松が生きたり死んだりするのと重要性の点で変わりがないであろう。このことも我々が気づきたがらない真実の一つである。ページ55
特に人生後半に入ると、自分の心身にのしかかってくる日々の老化という現実を紛れさせてくれる気散じが是非とも必要になってくる。若い頃も夢中になれる気散じや仕事は必要なのだが、それとはひと味違った心理的な動機が伏在するようだ。中高年以降では生き腐れしていく心身の実態から視線を外すことに眼目があるかに見える。それほど着実に進行する老化に直面することは恐ろしいし、また難しい。 自分はまだまだ若いと信じなければならないし、そのことを自分で納得するためにも証拠らしきものを次々見つけなければならない。幸い、世の中半分は同病であるから、盛りを過ぎた年代の積極的な意味を声高に唱和してくれる。ページ145
いずれにせよ、シルバーエイジ、黄金期、熟年、老人力、その他、老年を理想化するレトリックほど空疎なものはない。信じたい動機を持つ者のみが熱心に信じ、それ以外のものは内心信じていないのだが社交辞令として調子を合わせていくれるだけの信条は、はっきり申して、惨めたらしいものである。 むしろ老年期の人間なら、そうした世間のリップサービスを退けて「そんなにわしらを持ち上げて、また何を企んでるのかね」と切り返すべきなのだ。もし人生経験というものが加齢の代償として得られるものならば、それぐらいの世間知やシニシズムは備えていなければならない。ページ147
ドーキンスの「利己的な遺伝子」によれば)少なくとも科学的には、我々がなぜ何のために生きるのかを知らされた。すなわち、われわれは遺伝子を存続させるためだけに地球上うごめいている。大事なのは我々一人一人の生き死にではなく、特定の遺伝子がどれほど多くかつ長く継態されていくことだ。ページ153
長年医者をやっていて、しかも少しは自分でものを考えたことがある人物は、病気や寿命は畢竟するところ「運」だと知っている。確かに昔なら確実に若死にしていただろう人が、現代の医療技術や栄養その他の条件によって延命できたり治癒したりすることがあるが、これまた現代に生を受けた強運のおかげとも言える。…何より、どんな病院や医者に当たるかさえ、運の問題なのである。ページ188
むしろ健康法というのは一種の信仰なのである。本当に有効かどうかは二の次三の次になり、これさえやっておけば、これさえやめれば健康と長寿が保証されるかに信じ込むことで不安を紛らわしている。つまり健康法とは念仏と変わらない。ページ189
われわれの人生というのは、一つのモニュメント(記念碑)である。それに意味とか価値があるとかは証明されていない。…モニュメントであるというだけで、意味や価値などどうでもよいのだ。…だれしも認めたがらないことであるが、おそらく我々一人一人の人生が一種の無駄である。われわれの人生は将来誰にも顧みられることのない記念碑なのだ。ページ241
これはそうした不確実な毎日を「えーい、何事もなるようにしかならないのだ」と覚悟した上で、何かに打ち込んでいくしかない。これが病前病後を一貫することになった筆者の結論ということになる。ページ