ロボットの心

「ロボットの心」を読みました。難しい哲学の本です。大阪大学の石黒教授に言う通り、ロボットを考えるということは、すなわち人間を考えることだと合点しました。本書は「ロボットは人間と同じ心を持つことができる」と仮定して、その証明を試みています。フレームワークを機械が認識できるか? クオリアを組み込めるか? ハードルは非常に高いと感じました。人間の持つ道徳的倫理行動が一つの「幻想」であることも理解しました。この「幻想」がなければ正義の戦争は起こりえません。ロボットが人間の心を持つには身体とセンサーの発達、フレームとクオリアの組み込みがなければならないことを理解しました。備忘します。

ロボットの心-7つの哲学物語 (講談社現代新書)

ロボットの心-7つの哲学物語 (講談社現代新書)

「この世にあるのは物質だけなんだ」という主張と、「それだけじゃなく、物質とは別に心もあるぞ」という主張である。それは一見して相互に矛盾する主張であるのに、われわれはそれを時と場合によって使い分けている。ページ27
チューリングの「緩やかな行動主義」は概ね正しい方向に向いている。その理由は2つある。まずそれは、<内側から確かめる>という観点では機械と他人はイーブンだ、ということを正面から受け止めている。それによって、機械が思考持つことに対する内面的経験からの反論はブロックされるだろう。つぎにそれは、<みなし事実>と<事実>との間にギャップが生じたとき何が起きるかを我々に教えてくれる。ページ53
つまり思考は身体を必要とするのだ。それもいくつかの重要な点で我々とかなり似通った身体を。それ故、チューリングテストの機械が<考える>ためには、少なくとも計算機械にとっての身体を持つこと、一言で言えば、センサーの機能を備え、環境世界の中を動き回り、我々と会話を交わすことのできる、我々に似たロボットであることが必要なのである。ページ77
ということはつまり意味ある会話に必要なのは、<機械>と<我々>と<世界>なのだ。ページ119
フレームの問題をこう言い換えてもいいだろう。無視するということをことさらに行わずに、余計なものをいかにして<端的に無視>することができるか? ページ 127
一般化能力とか帰納的推論の能力と呼ばれるこの力をいかにして人間が獲得しているのかはまだはっきりとわからない。しかしそれが人間にとってフレーム問題を和らげてくれるのは確かである。したがって、その能力を並列分散型の計算機がそれなりにします以上、それをロボットに組み込まないことはないだろう。ページ167
ここで初めて感情と生きようとする生命が、直接つながるのである。感情の淵源は多細胞生物である動物が、漸進的に一如に、しかも速やかに行動するために、その神経と、そのホルモンをいちどに活動させることにあったのである。ページ188
このような純粋な<感じ>、つまり悲しみや楽しさの<内容>から切り離された経験の質、感覚質が我々の業界ではクオリアと呼ばれている、ページ193
我々の場合にクオリアが感情にとって本質的な役割も果たすのは、意識という情報処理の舞台が前提である。ページ201
倫理的判断は、その核心において<好き嫌い>のクオリアと結びついてることになるだろう。私は自然な感情が倫理的判断の正体だとは思っていないが、それなしには我々はそもそも道徳的行動などをとるはずもない。いずれにせよ、この場合も我々を道徳的行動をもたらしているのは、<好き嫌い>もしくはそれに由来する何かのクオリアの機能である。ページ236
もう一歩踏み込んで私の予想言わせてもらえば、おそらく妥当な道徳的原理というものがたった1つ存在しており、それは、自由裁量相互の調整に関する参加原理、つまり「他人の自由裁量最大限に尊重せよ」というような形式的な原理なるだろうと思われる。ページ241
それは我々の社会の絆の革新なのだが、それが一緒の<幻覚>だと了解されることで、客観性を旗印にした不毛な争いが意味を失い、立場の多様性に対する寛容さと、息の長い議論に基づく選び直しが可能になるからである。ページ242