未完のファシズム

「未完のファシズム」を読みました。戦前の日本はファシズムだったのか? この答を知りたくて読んでみました。戦前の日本は明治維新以来、権力を集中させたと誤解していました。むしろ明治の元勲は権力を分散し、天皇をはじめとする個人に権力を集中できない仕組みをつくっていました。軍にも政府にも官僚にも絶対権力が生じないように巧みにつくられらシステムでした。大正、昭和に元勲たちが亡くなったあとにどうしてよいかわからなくなった。負ける戦争にも反対することができなかった! 戦前のファシズムは未完であったことを理解しました。明治の秀才たちは表向きの論理とは他に勝てない事実を知り苦悶していたことがよくわかりました。備忘します。

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

国家の20世紀化とは総動員体制国家化のことである。このような蘇峯の認識は、例えば、20世紀末に盛んに行われ、本日の学科にも影響力を保持してると思われる、山内による近代化と総力戦体制化とを直結させる議論のはるかの先取りであったようにも思われてくるでしょう。ページ37
日本人はついに第一次世界大戦に深く思いをいたすことがなく、大陸での利権だ、世界恐慌だ、第二次世界大戦だと目先に流されて、この国を一旦滅ぼしてしまった。ページ41
日本の軍隊は第一次世界大戦はあまりに学びすぎたが故に、傘そのような議論を百も承知の上で、極端な精神主義へと舞い戻ってゆかざるを得なかったのだと。ページ90
兵隊や兵器や弾薬が足らなくても当たり前だ、それで戦うのは日本陸軍の基本だと、完全に開き直っている。気力と創意工夫と作戦で補えばいかに劣勢でも勝てると大胆に主張する。ページ124
端的に言い直せば、政軍関係では政治を無視して軍の独断専行も辞さない。時間的には徹底的に速戦即決。兵站の心配をする前に戦いを済ませる。作戦面では包囲殲滅あるのみ。速戦即決するには疾風迅雷の勢いでの包囲殲滅戦が一番。大胆に染めて一気呵成に会戦を終わらせるには兵士の並外れた戦意が無論不可欠。よって極端な精神主義。もし包囲殲滅による速戦即決に失敗した時の方策はない。兵站に焦点の移る長期戦は持たざる国にとっては敗北を意味する。 ページ127
皇道派の将軍たちがしばしば統制派をアカ呼ばわりしたのにはそれなりの理由があります。統制派とは「組織統制派」であると同時に「統制経済派」でもあったのではないでしょうか。ページ178
「しらす」「うしはく」…しらすもうしはくも古い大和言葉です。どちらも国を治めるといった意味合いで使われました。「うしはく」は「横領の意のオシと掃討の義のハキとの複合で、本義は征略であるが…」つまりは強権政治をぴったり現す言葉でしょう。しらすは知らすである。上に立つものが己を鏡として、下の者たちにありのままを映し出す。…上に立つものは知ったことを改めて下に知らす。それが日本の政治だ。ページ219
このように明治の政治システム超法規的な、異常なものでした。憲法の仕組みとその背景にある「しらす」の思想だけ見ると、だれも力を持ってない形でできているけれども、実際は、だれも力を持てないシステムを作り出した維新の元勲、元老達の手で回せるようになっている。でも彼らの寿命が尽きたら、憲法だけ残ってあとは知らない、ということになる。事実、そうなってしまったのは大正から昭和なのでしょう。ページ224
ファシズムが資本主義体制における一元的な全体主義の1つの形態だとすれば、強力政治や総力戦・総動員体制がそれなりに完成してこそ日本がファシズム化したといえるわけでしょうが、実態はそうでもなかった。むしろ戦時期の日本はファシズム化に失敗したというべきでしょう。日本ファシズムとは、結局のところ、実は未完のファシズムの謂であるとも考えられるのではないでしょうか。ページ227
「持たざる国」の軍隊は分相応に速戦即決にてするべきだという酒井。「持たざる国」を「持てる国」にすべく経済力と科学力の増強に全力を尽くすべきだという石原。2人の意見は大きく違いましたが、反東條英樹の姿勢では一致していました。ページ306