脳が壊れた

「脳が壊れた」を読みました。恐ろしい経験談です。41歳で突然の脳梗塞を発症、後遺症に対峙するフリーライターの闘病記です。奥さまは、数年前に脳腫瘍の手術、治療をしており、ようやくの回復中に自分が倒れるとは! 不幸を呪いたくなるような状況を客観的な分析とユーモアを交えて新書を出版する。著者の人間力に感動しました。自らの幸せを確認するとともに、そうなったときの覚悟を思わざるを得ませんでした。備忘します。

脳が壊れた (新潮新書)

脳が壊れた (新潮新書)

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「やればやっただけ回復する」。回復しない障害もあるが、諦めた瞬間に一切回復はしなくなる。あきらめないかぎり回復の可能性はある。これがリハビリの基本精神だ。ページ60
孤独と混乱の中にある生活困窮者や、貧困者には、この認知のズレが共通して存在する。彼ら彼女らに必要なのは、いち早く生産の現場に戻そうとする就業支援ではなく、医療的ケアなのではないか。それも精神科領域ではなく、僕の受けているようなリハビリテーション医療なのではないか。ページ82
実は人間とは、動物とは、視聴覚嗅覚をはじめとしてとてつもなく高度なセンサーの塊だが、そこで感知するほとんどの情報を無視することで、活動が可能になっているとされている。このことをぼくはロボットや人工知能世界で言う「フレーム問題」という言葉で学んだが、この聞き慣れない言葉を極めて簡略化すれば、人は最も直接的で発達したセンサーである目に入る情報ですら、そのほとんど無視していて、 この無視の機能を再現しない限り「人工知能制御のロボットは歩くこともできなくなる」というものだ。ページ97
具体的な苦痛以外に、死んでこの苦しみから逃れられうならいっそ死んでしまいたいというほどの苦しみにあることを知らなかったのだ。心のバランスを崩すということがこんなにも辛いことなんて、ぼくは本当にわかったふりをしていただけだったのだ。ページ129
僕が今こんな状態なのだということを介護職の知人に話した。「それは、まんま後期高齢者、特に認知症高齢者の特徴に合致する」と言われた。まず呼気の弱さや口周りの不自由さによる話づらさは、入れ歯の高齢者なら全員が感じていることらしい。 人の脳は加齢によって様々な部位が衰えていくが、中でも感情の抑制が苦手になるのは認知症でなくても共通することで、よく言う「年をとって涙もろい」「おじいちゃんになって怒りっぽくなった」は感情失禁に近いものだという。加えて注意欠陥は認知症にはよく見られる傾向。ページ142
コンセプトは「辛いことは一切しない」「絶対に頑張らない」「あんまり我慢もしない」でこれについてはちゃらんぽらんの女神である妻が結構横から口を出してくれた。ページ197
リハビリの先生に指導されたウォーキングのペースは、歩き始めたら少しペースを早くしていって、ちょっとでも疲れを感じたらペースを下げるということを繰り返すもの。ページ198
結局のところ、一日の中でオンオフをつけ、運動の時間を確保し動いて食うのが正解ということなのだろう。頑張らないで運動する。思えばこの1日、1時間半程度の運動の時間を捻出できずに、だらだらと1日中仕事をしていた僕は、頑張り屋ではなくメリハリのないだらしない人間だったのだ。そしてそんな自称頑張り屋さんこそ、脳梗塞のターゲットだということだ。ページ203
平時ならば、頼まれてもいないことをするのは差し出がましいのではないか? 押し付けがましいのではないか? という気持ちが先に立つものと思う。だが本当に追い込まれた人間は、助けての声が出なくなる。そして、して欲しいことある? と聞かずに一方的にやってくれることが、ようやく助けの声を搾り出すためのプロセスになる。何よりありがたいのだ。ページ221