競争の作法

「競争の作法」を読みました。失われた10年、20年の分析をしています。驚いたのは地方の経済が復活しない理由は「固定資産税が安すぎるからだ」という指摘です。地方経済の極度の不振は税制にあったことを初めて知りました。今まで聞いた説明のなかでは一番尤もらしいと思いました。震災前の著作ですが、現在のアベノミクスをものの見事に予想しています(結果的には失敗の予想)。驚きました。備忘します。

競争の作法 いかに働き、投資するか (ちくま新書)

競争の作法 いかに働き、投資するか (ちくま新書)

…市場の仕組みを生かすことを嫌悪し、市場における競争を敵視する昨今の風潮である。そうした雰囲気が日本社会に蔓延すると、今ある豊かさを失って、幸福の基盤が壊れてしまいかねない。豊かさを無駄に使うことをも、豊かさそのものを失うことも、是が非でも避けなくてはならない。 (12ページ)
まず、豊かさと幸福を定義しておこう。経済学でいう豊かさとは、生産活動によって生み出されたものの価値の総量である。一方、幸福とは、生産された物を消費することで享受できる効用の大きさである。このように定義してしまうと、いささか無粋に見える。…くだけた言葉で言うと、幸福な豊かさもあれば、幸福でない豊かさもあるとなろうか。(16ページ)
日本航空ほど破廉恥でないにしても多くの企業や銀行は、これまでの問題先送りのつけをリーマンショックにすり替えてきた。リーマンショックは、体のよい免罪符のようなものであった。( 28ページ)
しかし見方を変えてみると大規模な為替介入による、円高阻止は、海外勢ができるだけ安価で日本の資産を購入するのを手伝ったことになる。海外投資家にとっても、財務省の為替介入はありがたがったと言える。財務省の介入行為は、このように突き放して見てしまうと、お人よしとも言えるし、ナショナリスティクが勝ってしまうと、売国奴ということにもなるだろう。 (81ページ)
戦後最長の景気回復が豊かさに結びつかなかった。…実質GDPは、561兆円にして56兆円、率にして11.1%成長した。家から実質家計消費は、291兆円から310兆円へと額にして19兆円、6.5%しか拡大しなかった。何が経済成長を支えたかというと、純輸出と設備投資である。 2つの「円安」の追い風を受けて実質純輸出は7兆円から19兆円へ急拡大する輸出を支える生産増強で実質民間設備投資は69兆円から87兆円18兆円それぞれ拡大した。56兆円のGDPの成長の内、純輸出と民間設備投資が37兆円、 66%を占めていた。日本経済の生産機能の縮小が迫られた今となっては、旺盛な設備投資でせっかく築かれた最新の工場施設も、最先端の基設備も、過剰で無駄なものになってしまった。…輸出企業はこの2つの円安という神風の恩恵を最大限に受けて、未熟な工員がいい加減に作った製品でも十分に高い競争力を保つことができた。こうして企業側では労働コストを節約しながら輸出拡大に対応でき、労働側では空前の企業業績にもかかわらず労働所得がふるわなかった。輸出で荒稼ぎした収益のほとんどは生産増強のために設備投資に投じられ、株主に還元されることはなかった。 2つの「円安」は、交易損失という形で日本経済から購買力を奪ってしまった。 (112ページ)
多くの人々がその様に覚悟を決めていたところに、 1999年2月、 9ゼロ金利政策が導入されて、日本経済には不思議な安堵感が広がった。社会と組織に守られた多数の人々からは、緊張感がすーっと引いてしまった。 何事もなかったかのような静けさが辺り一面を支配した。こたちは、世の中の日銀批判にくみしたくないが、ゼロ金利政策の導入だけは日本銀行の深い罪だと思っている。 (133ページ)
そこから得るべき教訓は、グローバルな競争にさらされている日本経済は、生産性に照らしてみて生産コストが2割高すぎるということになる。経済学者としてその教訓を真正面に据えて正攻法の処方箋を書くとすれば、日本経済全体で、第一に生産性を2割上昇させる、第二に生産コストを2割引き下げる、という2つの道のいずれかしかない。ここまでは他人事のように書くことができる。この日本経済に対する処方箋を一人ひとりの個人に落とし込んでみると、各人が次の4つの質問を自らに投げかけなければならないことになる。・自分は、自らの生産への貢献に比べて給料が多すぎないか ・自分は自らの生産への貢献に比べて給料が少なすぎないか ・他人は彼の生産への貢献に比べて給料が多すぎないか ・生産への貢献に比べて給料が少なすぎないか  日本経済全体で生産性に見合った生産コストに調整していくと言う事は、各個人のレベルで言うと、右の4つのいずれの質問についても答えがイエスであれば、その状況を速やかに是正して、生産への貢献にあったレベルに給与を修正していくことである。 (137ページ)
国際競争から要請される生産コスト削減と生産性向上は、日本経済で活動している人、 1人1人が自分の課題として取り組まない限り解決できないと私が主張するのは、 1997年以降の日本経済の歩んできた苦渋の経緯を踏まえてのことなのである。個人が経済合理性や他者への配慮によって保身や嫉妬を乗り越えあるいは、困難な状況を、新しい生き方を考えるきっかけとして前向きに捉えることで、グローバルな競争社会に於いて我々がよりよく生きることができるのではないだろうか。こうした課題の解決について個人を主軸に考えるのはそれが経済政策の最も苦手とする領域だからでもある。権益を守ることができる範囲でしか物事を考えられない政治家や官僚に重大な問題を委ねても、ろくなことを考えない。戦後最長の景気回復期のように、ニッチもサッチも行かなくなって、「ゼロ金利だ」「量的緩和だ」「為替介入だ」と騒ぎ立て、政策総動員で「成長戦略だ」「デフレ脱却だ」と喚きだすに決まってる。そのようなことになれば元の木阿弥である。そんな愚かなことをいくら繰り返しても日本経済が豊かにもならないし人々は幸福にもならない。ただ差し迫ってはいるがだからといって絶望してる訳では無い。一人ひとり、いま直面する課題を丁寧に考えていくことから道が開けるのではないだろうか。(158ページ)
あらかじめ結論を先取りしておこう。後れた部分は、日本経済が正味の豊かさという面で国際的な地位が大きく低下したことである。その結果、日本経済で活動する人々は、達成すべき目的を失ったままにさまよってしまった。こうした事態を裏返して考えれば、新たに作り出すべきことは、今までとは全く違う新しい取り組みで正味の豊かさを築いていことであろう(182ページ)
それにしても株主が経営者と真剣勝負しないのはやはりおかしなことではないだろうか。どう逆立ちしても資本主義社会では会社は株主のものである。所有物に対して意見を言うのは当然であろう。それをしないのであれば、明らかに株主としての責任を放棄していることになる。…日本の資本主義には株主らしい株主と経営者らしい経営者が真剣勝負で議論する風景が存在しない。その代償として設備投資に投じた資金の何割をも無駄にしてしまうという破廉恥な事が毎年繰り返されてきたのである。( 199ページ)
例えば地方都市の駅前の商店街から客足が遠のきほとんどの店がシャッターを下ろしたとしよう。しかし、商店の2階部分が住居として用いられていて住宅扱いとされていると固定資産税をほとんど払わなくて済む。だからこそ、土地を有効利用せずに、ほったらかしておくとことができるのである。固定資産税が随分と高ければどうなるであろうか。地主は商店街の土地を有効活用して何らかの収入を上げなければ、固定資産税を払えない。地主が自分で有効に活用できなければ、その土地を誰かに売って地主の立場を降りるしか高額の固定資産税を免れる道は無い。…それにしても3大都市圏で底値形成までに足かけ14年から15年、地方では未だに底値の兆しさえ見えてこない。その間、土地は活用されないままに放置されてきたわけである。このような長い期間にわたって、土地という貴重な資源を遊ばせとくのは、社会的な費用があまりにも大きすぎる。そろそろ固定資産税の見直しに着手し、地主が土地を有効に利用する方向に追い詰めていくきではないだろうか。本来、土地を有効に活用するのが所有者の責任であるので、その方が地主も地主らしく振る舞うことができるであろう。 (206ページ)
勝っていてもほどほどのところで身を引いて状況からするりと抜け出す。負けたのなら負けを認めない弱い自分に打ち勝って、新しい生き方を見つけ、新たな挑戦に取り組む良いきっかけとしていく。…これまではマスコミを中心として勝ってる時は散々持ち上げておいて、負けると手のひらを返したようにさんざんこきおろすことばかりをやってきた。その結果、日本社会全体で競争との付き合い方競争の作法と言った方が良いのかもしれないが随分と悪くなってしまったのではないだろうか。( 221ページ)