胎児の世界

「胎児の世界」を読みました。科学の本を読んで哲学的な感じをいだきました。生物の発生について考えているはずなのに、考古学、あるいは心理学、あるいは歴史、宗教に拡散しました。一週間が7日であること、大学の授業が90分であることは人類としての文化ではなく、生物としてのリズムであることを初めて知りました。奥が深い本です。備忘します。

胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691))

胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691))

考えてみれば私たち人間も同じではないか。人々はめいめい里に帰る。成人して結婚の式を挙げる時は、男性の里へ向かって二人で旅立つ。初産を迎えるときは、女性の里へ一人で向かう。サケと同じ「いのちの行為」ではないか。( 25ページ)
マ行の音「マミムメモ」は、一般に「唇音」と呼ばれる。唇なしには出てこないからだ。したがってこれは哺乳動物の象徴ということにもなる。猫の「ミャー」牛の「モー」うしともに、人間の赤ん坊の形式の音声が「ンマンマ」である事は万国共通であろう。唇を持たず爬虫類では、だから、この唇音に代わるものとして、口蓋音のカ行「かきくけこ」が出てくる。もし中生代の恐竜の発したであろう音声を再現するとなれば、このカ行を考えなければならないであろう。(38ページ)
胎児の顔のことを考えながら、私たちはしかし、ある絶望的な問題の前にたたずんでいた。胎児は顔が見えない。目に顔面を埋めたあの勾玉の姿勢では、横顔といっても、ほんの首の部分しか見ることができないのだ。このドラマの真髄は、まさに顔の正面像に秘められてると言うのに。(104ページ)
胎児は受胎の日から指折り数えて30日を過ぎてからわずか1週間で、あの一億年を費やした脊椎動物の上陸史を夢のごとくに再現する。( 107ページ)
胎児の顔貌に漂うもの、それは紛れもない動物の面影であった。あの軟骨魚類の面影が、あっという間に爬虫類のそれに変わり、やがてそれが哺乳類に向かっていく。ニワトリの発生で見た「まぼろしの上陸劇」そのものであった。そこでは、この様子が体の内景で観察されたが、ここでは外景、それも顔という最も身近なものでこれが見られた。 (118ページ)
以上のように人類の宗族発生は古生代脊椎動物にまでそのものさかのぼれるが、ここから先は暗中模索と言っていい。おそらく、数億年を堀り進むうちに脊椎の構造が次第に消失し、活動的な体制から浮遊性あるいは底着性のそれへと単純化が起こり、ついにはその終着点に20億年余に及ぶ微化石の地層が続くのであろう。そして、その終着点に、 30億円余りと言われる生命発生の原初の地層が位する。( 127ページ)
比較発生学の醍醐味はまさにこういったところにあるのだろう。上陸再現の模様が、両生類→爬虫類→鳥類と進むにつれて明らかに変わってくる。上述のように、両生類では現実の生活の中で行われていたものが、爬虫類では卵の中でひとつの思い出として繰り返される。 (134ページ)
このように見てくると人間の体に気に入られるとどんな「もの」にもその日常生活に起こるどんな「こと」にもすべてこうした過去の物事がそれぞれの幻の姿で生き続けていることが明らかとなる。そしてこれを、まさに、己の身を以て再現して見せてくれるのが、われらが胎児の世界ではないだろうか。 (146ページ)
地球の生物のからだには7日目ごとに、何か目に見えぬ不可思議な波がそっとしのびよってくるのか。肉親との死別の衝撃は、明らかに7日を一区切りとして、それは遠のく。もはや肉体感覚とでも言うのか。( 179ページ)
人間の作ったか時間制も、これと意味同じであろう。小学校の45分間授業は、大学では倍の90分にはなっているが、この体には、目に見える、この90分の波が同じように隠されていることを、見過ごしてはならない。これは睡眠中の脳波から実証されたことだが、昼間もまた同じ波があることを、人々が長い生活を通して会得していたのであろう。 (180ページ)
古来中国では、宇宙の根源現象は「道(タオ)」で表現されてきた。そしてこの道はリズムであるという。この思想は、したがってギリシャ箴言「万物流転」すなわち森羅万象はリズムを持つ」と、本質において異なるところはない。人間の洞察の目は、時とところを超えて常にこの一点に注がれてきたようだ。 (197ページ)
…どんなに隠されたリズムも、適切な打拍効果によってその波形がにわかに露になることを述たが、ここから式年遷宮の儀式が、地球生物の根源波動を人々の心に蘇らせる人類史的な拍節の行為に思われてくる。この生物リズムはもちろん宇宙リズムと共鳴する。そして、この大小宇宙の共振を演出するのが真の拍節行為であるとすれば、天皇は現代における、「人天交接」の真の意味における指揮者ということになろう。この天皇によって象徴されるか国柄が、ヤマトの国の本来の姿ではなかろうか。 (210ページ)