梅棹忠夫の京都案内

観光は、住んでる人間を傲慢にしたり、卑屈にしたりするそうです。北海道人、函館人は気をつけないとね。50年前の京都案内書です。著者は、名著「知的生産の技術」の梅棹忠夫氏です。京都の観光旅行は1ヶ月以上にします。備忘します。

梅棹忠夫の京都案内 (角川選書)

梅棹忠夫の京都案内 (角川選書)

朱雀大路の南の端に羅城門というものがあったのですが、今は、何も残っておりません。その両側に大きなお寺が2つありました。左京のが東寺、右京のが西寺、今は西寺がすっかりなくなって、東寺だけが残っています。東寺の一番初めの住職は弘法大師すなわち空海で…この寺の五重塔は日本で一番高いことであります。ページ17
嵐山の奥に大悲閣という寺があります。そこに角倉了以という人の像が祭ってあります。大変怖い顔していますが、この人こそは、近世初頭の京都にあらわれた非常な英傑であります。商人で貿易商でありますが、大きな船を作って海外に派遣し、その利益で巨万の富を築いた人であります。二条の木屋町に角倉家の倉庫があり、伏見からそこまで貿易品を運ぶために運河を掘りました。それが、今も残っている高瀬川であります。こくあさい川ですから、この川で使う舟は、特別に底の平らな船で、それを高瀬舟と呼んでおりました。ページ21
東京あたりの神社は、規模は狭小は、チャチで安っぽい。お寺ばかりか、お宮もまた関西が、京都が家元である。下鴨神社は、そういう雄大で気品ある社の1つである。上賀茂の別雷神社に対して、こちらは御祖神社とも言う。両者とも起源は神世に遡る。ページ50
(林家辰三郎「京都」)著者の論点の中で、私が最も感動したのは、著者が、「京都はなぜ千年の古都と称しうるか」を説明した部分である。応仁、文明大乱によって、古代都市として京都は、完全に滅び去った。しかし、王朝の遺跡は全て、桃山、寛永のルネサンスによって復興されているのである。この指摘は京都理解する上に、あるいは日本の文化を理解する上に、非常に重要な点であろう。ページ87
…おくりびのことを「大文字焼」などと言い出した。今川焼きの親類じゃあるまいし、なんとも野暮な感覚の言葉である。あの美しい火のかがやきをこういう粗野な言葉で表現して、恥ないような人たちのために、大文字は灯されねばならないのだろうか。ページ135
もっとも恐るべきことは、観光地と呼ばれる土地に住む人間が、観光を意識することによって、自らその土地と文化の主人公であることを忘れて、何もかも、得体の知れぬ連中に奉仕し始めることである。観光は、人間を傲慢にする一方、人間を卑屈にもする。ページ145