日本史の謎は地形で解ける

「日本史の謎は地形で解ける」を読みました。地形や地勢から歴史を解釈すると今までの常識を覆す歴史が見えてきます。なかなか面白い内容です。例えば、奈良から京都、京都から江戸への遷都を、地勢から読み解いています。交通の要衝が変化し、エネルギー(森林)が枯渇したから遷都したそうです。政治的な理由は、議論百出ですが、地勢からの分析は、単純で納得しやすいです。他に、信長の比叡山焼き討ちの理由、頼朝が鎌倉に幕府を置いた理由、福岡発展の理由、それぞれ新しい視点で、楽しく読めました。圧巻は、邪馬台国の場所です。伊都国の近所であると断言してます。備忘します。

関ヶ原の戦いで勝利した後、1603年、家康が関西から江戸に飛ぶように引き返したのは、新たな戦いを一刻でも早く介するためであったのだ。ページ39
日本史上、最大の国土プランナーは徳川家康であった。ページ40
信長は大阪と比叡山の地形に心から怯えていた。恐怖に駆られた信長は僧侶たちを徹底的に抹殺せざるをえなかったのだ。ページ52
鎌倉が軍事防衛上優れていたのは、周囲を幾重にも取りに行く山山の地形だけではなく、この密集する常緑樹の濃さだったことに改めて気がついた。ページ59
頼朝の命を脅かす疫病は頼朝の敵となった。この疫病という敵は目に見えず、軍事力や富や情報力で打ちまかすことができない。疫病を恐れた頼朝は鉄壁の防御都市、鎌倉に閉じこもることにした。ページ71
牛車群と、騎馬軍団が活躍できるのは、縦横無尽に走りまわる大地があっての話だ。日本のどこにその大地があったのか?日本にはぬかるんだ泥の土地が広がっているだけだった。ページ89
13世紀の日本とベトナムとは海を介して共同戦線を張って世界最強のモンゴル軍に辛くも勝利したのだ。ページ97
江戸城を見る方向は甲州街道からであり江戸城の正門は半蔵門なのだ。ページ122
小名木川は、海の波に影響されないで進軍する軍事用の高速水路であった。家康は、このためにわざわざ海岸線の内側の干潟に水路を建設したのだ。ページ202
利根川の水が豊かなときに水をため、利根川渇水になったときに水を放流するダムがあるからこそ、東京はこのような膨大な水量を消費できるのだ。ページ221
浅草は新しい人工的な埋立地ではなかった。浅草は関東の大湿地帯の中で1000年以上の歴史を持つ、中洲上の小高い丘であったのだ。ページ227
日本堤遊郭を配置し、墨田堤に桜並木と料亭街を配置し、様々な催事を仕掛けた幕府のソフトウェアは見事に成功した。江戸市民の往来が堤防を踏み固め、江戸市民の視線が堤の崩れや水漏れ穴を発見した。ページ240
京都が都になったのは、偶然ではない。一見すると現在の京都は、大阪湾から奥まった内陸部に位置している。しかし京都は、日本海側と太平洋側の各地へ船で行けると言う船運交流の中心地であった。1000年以上日本の都として君臨した京都は、日本列島を纏め上げるための見事な地勢条件を備えていた。ページ292
京都が1000年以上日本の都であった理由は御所の存在というより、日本列島の地形上の必然の交流軸にあったからだ。ページ296
福岡は年の条件の4番目の「交流」がとてつもなく大きなウェイトを占めていた。単に本州と九州を結ぶ交流軸などというものではない。ユーラシア大陸を横断し朝鮮半島から日本列島にたどり着く世界文明の交流軸、その大交流軸の上に福岡は位置していた。ページ355
日本文明の「自滅」の可能性は2度あった。その二度とも遷都によって危機を脱した。これが本書の結論である。ページ360
徳川家康は関西の山地荒廃を目のあたりにしていた。家康はこの関西を嫌った。1590年に家康は秀吉によって移封されたが、そこで見たものは日本一の利根川流域の手付かずの森林であった。目にしみるような緑は利根川流域の未来の発展を告げていた。家康は利根川の江戸を選択した。これが「なぜ家康が江戸に戻ったのかの問い?」に対するエネルギーの観点からの答えである。ページ374