史記を語る

史記を語る」を読みました。これまで「史記」といえば「列伝」のことで、他の部分や構成には全く興味がありませんでした。本書で、王朝の正史が「本紀」、年表が「表」、文化史が「書」、列国や諸侯の歴史が「世家」、そして個人の伝記が「列伝」でであることをはじめて知りました。
若い頃、中島敦「李陵」で司馬遷の篤い友情に感嘆した記憶があります。宮刑の悲劇に遭遇した司馬遷の不撓不屈の精神力にも尊敬と憧憬を抱きました。貝塚茂樹氏、世界の名著11「司馬遷」で、孟嘗君荊軻のエピソードを読んで感動しました。孟嘗君物語で、毀誉褒貶、人の心の移ろいやすさと対処法を学びました。荊軻物語を題材にした中国映画「英雄」は出色の出来でした。
久しぶりに古典に接し、今、自分自身が置かれている状況に一喜一憂するのではなく、思いのままに過ごすことが肝心だと思い至りました。備忘します。

南越列伝、東越列伝、西南夷列伝を設けるが、これらの諸民族はそれぞれの国をないしは君長の下に団結して独立勢力を形作っているのであるから本来ならば世家に準じてしかるべきものである。しかしながら司馬遷儒家の立場から、すべての価値の基準を中国の伝統的な帝王政治に置くので、中国的体制に組み込まれないで、外部に独立している民族集団は、たとえその君主であっても、これを庶民以上の価値を持たない者として、列伝の中に記述するのに止めるのである。ページ40
…本紀には厳密な意味での天子のくらいにあった人だけの実績を述べるべきであり、たとえ実力者であっても、名分の正しくないものは本紀に載せるべきではない、という議論が優勢になってきた。ページ41
階級闘争は決して社会を進歩させるための唯一の動力ではない。それよりも生産闘争、および生産手段の改革が大切だと言い出した。ページ66
司馬遷は「史記」において主権者の記録たる本紀と個人の伝記である列伝の中間に、世家なる部門を立てて、封建諸侯の世系を記述した。ページ68
もし「史記」がなければ、どれほど多くの史実がB岷滅してしまったであろうか。「史記」を評価するには何よりもこの観点を忘れてはならぬと思う。ページ97
司馬遷封建制度1種の力学的な必然性の産物として理解しているらしい態度には同感である。ページ114
封建君主は主要な都市を国都とし、そこに中央に倣った政府を樹立する。国君は中央に対して服従し、軍役、貢納の義務に復するほか、領内においては全く自由に行動できる。このような封建国家は地方の安定勢力として力学的に必要である。ページ115
史記」は最初に本紀のせ、その次に平十巻を置く。しかしこの年表は単に本紀と参照すべきものたるにとどまらず、実は世家と密接な関係があり…ページ131
列伝70巻は「史記」の中でも、司馬遷が特に心血を注いで書き上げた部分と思われる。この中で彼はもっぱら都市国家を基盤とする古代市民社会の中で交錯する人間模様を書こうと務めた。ページ154
史記」列伝には物語的な要素が甚だ多いが、中でも最も物語色の強いのはどれかといえば、それはおそらく伍子胥列伝6であり、この右に出るものは、後世の史書にもあまり見当たらないであろう。ページ167
斉の孟嘗君は宰相になったとき、食客3000人に及んだが宰相を罷められると、皆逃げ去ってしまった。次に再び宰相に任じられると、またまた游士が集まってきた。孟嘗君が腹を立て、前に逃げ出したものがまた帰ってきたならば、その顔に唾して大いに罵ってやりたいというと、腹心の馮驩先生が諫めて、「…今君が位を失いし時、賓客みな去るも、以て士を恨むに足らず。いたずらに賓客の道を絶たたんよりは、願わくば君、客を遇すること、故(もと)の如くせよ。と言ったので、孟嘗君も悟って、再拝し、謹んで命に従わんと答えた。ページ196
史記」列伝には…刺客列伝第26がある。…、刺客ならざる刺客は燕の荊軻であり、司馬遷の描写は刺客列伝中でも出色の文章である。荊軻の事蹟はやはり戯曲的な構成を持ち、起承転結四段のリズムに乗っている…ページ199
風、蕭々として、易水寒し。壮士一たび去って、復た還らず。ページ 202