知識人99人の死に方

「知識人99人の死に方」を再読しました。今回は自分ごととして読めました。淡々と死を迎えるのが美しいと感じました。準備もできるので脳溢血、心筋梗塞でなく癌で死ぬのがよいかもしれません。
荒俣宏さんの知識人の選び方、解説がよいです。死んだ経緯を調べて、どうやって死んだかをざっと述べてから、本人の気持ち、周囲の反応が書いてあります。解説で、死者の評価がさりげなく書かれています。荒俣氏の死生観がでていると思います。
私の印象を書き残しておきます。手塚治は仕事のやり過ぎです、戦死です。有吉佐和子はヒステリーで付き合いきれない人です。永井荷風にはなりたくない、孤独な偏屈オヤジ。三島由紀夫は憤死です。深沢七郎は病気との闘いの人生でした。寺山修司は不摂生です。向田邦子は事故死を予想していたようです。柳田邦夫は大往生。太宰治うつ病です。松本清張は、大変謙虚な方です。学歴もなく努力に努力を重ねて大作家になった人らしい最後です。今東光は満足のいく人生です。森茉莉さんは究極のタカビー、普通の人じゃないです。稲垣足穂は、めちゃくちゃの人です。石川淳の作品は読んでみたいと思いました。備忘します。

…生前、山本周五郎ロングフェローの言を弾いてこう語っていた。「人の真価は、彼が死んだときこれから何を為そうとしていたによって決まるのだ」とページ50
「長い独身生活を破って結婚、京都に移住して周囲を驚かせた稲垣足穂入道の昭和52年の死に至る後半生の私生活というかめちゃくちゃなライフスタイルが、かなりオープンに語られて抜群に面白い。ページ117
…扇谷正三がしばしば口にしたのは、次のような人生設計である。40にして初めて惑い、50にして志を立て、60にしてことに励み、70にしてことを成し遂げ、80にして已む(引退する)ページ143
石川淳の左手はタバコを吸う形で唇に添えられていたという。したい事は全てし尽くして、ももし残る思いがあるとするなら最後の一服ができなかったことかもしれない。ページ174
…「したいことをしていればいい」と彼は巨大な丸い石の彫刻物のような格好で、私にか語りかける。「その存在が本来あるべきところにいて、やるべきことをやっていればそれでいい」と、語りかけている。机の前に座って、居間に座って、台所に座って書き直し1つしない原稿を、ひたすら書き続けている石川淳がいる。やはり死は何者でもなかった。その書き続けている彼は、私の中に入り込み、再びそして何度でも、私の力となる。その力は野心とかエネルギーとかいった形をしていない。太古から地球に生えている巨大な石のごとく、そこに”存在し続けること”という形をしている。ページ181
「当然恐怖はあるよ。死ぬのはやっぱり嫌だし怖いし、そりゃあ支離滅裂になりますよ。…でも、覚悟して死ぬというのは間違いですよ。いま生きていることに執着してこそ解脱はあるんでね。そう思い決めたら、2度目に入院して帰ってからは朗らかになっちゃった。死ぬことが怖くなくなった」ページ246
生と死は互いに対応し、陰陽をなしつつ交代するという”生死一如”の世界を書いたわけです。…”生死一如”に入っていれば、”空”ですし、”無”ですね。ページ255
菊池寛大正13年に最初の狭心症の発作に襲われた。その後に書かれたものが、菊池の死後遺書が発見された。「私はさせる才分なくして文名を成し、一生を大過なく暮らしてました。多幸だったと思います。死去に際し、知友及び多年の読者各位に厚く御礼もうします。ただ皇国の隆昌を祈るのみ…と記されていた。昭和23年、菊池は吉川英治の名で「藤十郎の恋、恩讐の彼方に」の解説を自ら書いたが、その中で菊池寛が語った話として「人間を死ぬ組とと、永久に死ななくてもよい組に分けるとしたら、俺は死ぬ組に入る。老人になっていつまでも生きていなければならないとしたら、こんな悲惨なことはない。死という事は、人間生活にとってやはり一つを救いなのだ」とも記している。ページ268