古代日本の航海術

「古代日本の航海術」を読みました。以前、古代エジプト王朝の時代に長さ50メートルの大船があったとのことを知り、古代の造船や航海の技術がどうなっているのか深く興味を抱いておりました。日本でも、天智天皇の御世に白村江の戦いがありました。どうやって、2万人の兵士を渡航させたのか不思議に思っていました。さらに、時代が下っているのに遣唐使の時代には、鑑真を含め、難破など、非常に難儀したのは何故か疑問を持っていました。
古代の人々は存外利口で、私たちが気づくことはすでに理解していたようです。北極星が北を指していることや帆の張り方、舵の構造に気づいていました。でも大船が必要な時代には技術が発達しても、必要がなくなると忘れ去られてしまうのだそうです。
古代エジプトのセン=ネジェム墳墓の壁画(紀元前1300年頃)と古代日本の珍敷塚古墳(古墳時代後期)がそっくりなのに驚きました。古代日本にエジプトの情報が伝わっていたとは驚きです。また、ポリネシアを発祥とする「カヌー」(船)と「軽野」(狩野川)は同じ語源だと予想しています。それにしても古事記日本書紀を縦横に解釈する、著者の教養に驚きました。備忘します。

日本においては軍艦鳥の役割はカラス等に置き換えられた。…陸地が見えなくなるほど船が沖へ出てしまったときに、このカラスを放ち、それが飛んでいく方向に船を向ければ陸地へたどり着けるという方法がとられたと考えられる。ページ39
私の考えでは、「カノー」の造船所があったところは「カノーの里」であり、「カノー」の用材の切り出しが行われた山は「カノー山」と名がつけられたのではないかと思われるがそうした例は多い。例えば常陸風土記には「軽野」の地に関して記述があり、その中で「大船の長さ十五丈、幅一丈余」と述べている点と、「軽野の里」があったことを述べている点に関心がもたれる。ページ43
ここに至って私は若干の補足の説明をする必要を感じる。というのは、前述で、「枯野」「軽野」は、「カヌー」「カノー」ではないかと言うだけで話を留めておいたが、「ノー」というのはサンスクリットの「ノウ」から来ているのではないかという説もあることも触れておかなければならない。これはそのままが船と言う意味であり、「軽ノウ」なら「軽くうきて疾く行く事馳する如くなりき」の意味そのままの「軽く走る船」という合成語になるので、簡単に否定はできない。ページ44
以上から、古代にも、我々の想像以上に日本の各地で造船が行われていたこと、そして作られた船の数も意外と多く、寸法も割と大きなものであったことが考えられる。また今までの定説には反するが、「軽野」は決して一艘だけに名付けられたのではなく、船そのものを広く「カノー」と言っていたのではないかと考える。ページ50
…太平洋の大環流に乗って、日本からもハワイへ、あるいはアメリカ大陸や、そして赤道付近の多くの島々へ、長期間にわたって少なからぬ人々の移動が、有史以前の昔から行われたに違いないと信じるものである。ページ67
ともすると海流と潮流と混同する向きもあるが、正確に区別しなければならない。ページ87
海流が流れる時に、陸岸の一部が湾入している場合、あるいは逆に岬が突出している場合、その湾内または岬の陰になる部分には、海流の本流とは逆の反流が生じるということである。ページ89
古代の航海について考えてみると、瀬戸内海、日本海、太平洋側の順に人々が多く航海したように見え、その中で朝鮮半島との往復は、いとも簡単に、当然の行動範囲として扱われているのに驚く。ページ105
ここにも、古代日本に、ポリネシア流入の可能性が潜んでいると思われるものがあるといえよう。ページ108
魏志倭人伝にいう一里は93メートルと算定したこと。…古代における1日水行距離というものを20ないし23キロとし、1日陸行距離を7キロ前後として、投馬国や邪馬台国の存在可能範囲をおさえたこと。…ページ171
指南車については、周公の時代作ったといわれ、それは長い間磁石と考えられていた。しかし後になって宋書の中で指南車の解説があることがわかり、その本体は磁石ではなくて、からくりともいわれる歯車装置であることが確認されたという。ページ215